AMELIA EARHART : A SYMBOL OF NEW WOMANHOOD

新しい女性像のシンボル
アメリア・イアハート

July 2019

text stuart husband

アメリア・イアハートと彼女の愛機、ロッキード・エレクトラ(1933年)。

 彼女はすでに大空に夢中になっていた。トロントにある軍の航空施設に行ったとき、「彼らパイロットたちはとても若く、情熱的だった。空への夢は、ロマンを求める者にとって、なんと魅力的なことか」と書き残している。そして彼女もその一員となったのだ。最初の試験飛行の後に、彼女は「もうなんでもするから飛行機が欲しい」と宣言し、数時間のフライト経験の後に、彼女の最初の飛行機である“キナー・エアスター”を手に入れた。豊かな法律家の娘であった母親のエイミーは、2000ドルを支払う羽目になった。イアハートは、「私は“空”というものを手に入れ、大空の放浪者となった」と記している。 

 フィラデルフィアの寄宿学校を卒業すると、イアハートはブリンマー大学へ行く計画をやめた。すべては空を飛ぶためだった。そのために電話会社の事務員やアマチュア写真家、時には砂利運搬の仕事までやった。1923年には曲芸飛行をマスターし“エア・ロデオ”の一員に抜擢された。同じ頃、彼女はサム・チャップマンというエンジニアと婚約している。しかしそれは破談となった。おそらく有名になりつつあった彼女に釣り合わなくなったからだろう。

 大きな転機は1928年に訪れた。当時の鉄鋼王、フレデリック・ゲストの夫人は“フレンドシップ号”と名づけられた飛行機による大西洋横断を計画していた。しかし元英国閣僚でもあった夫に反対され、仕方なく他の乗客を探すことにした。そこで“適した種類の女の子”として、当時ソーシャルワーカーの仕事をしていたイアハートに白羽の矢が立ったのだ。彼女はこうして大西洋横断飛行を成し遂げた。

 乗客であったにもかかわらず、彼女は大西洋を横断飛行した最初の女性となった。アメリカに帰ってきたときには国際的なセレブリティとなっていた。ちょうど4年後の1932年、彼女は単独大西洋横断飛行に成功した。さらに3年後の1935年、彼女は太平洋を横断した最初の女性パイロットになった。

 イアハートとヌーナンが赤道を一周する計画を始動させる頃には、イアハートの大空への情熱は、彼女の熱心な支援者でさえ、少々うんざりするくらい激しいものとなっていた。そのうちの一人は彼女を「何かに取り憑かれているようだ」と非難した。

 イアハートは成功の可能性を五分五分と見ていた。しかし彼女自身よりも、ヌーナンのことをもっと心配していた。

THE RAKE JAPAN EDITION issue 29
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