Thursday, July 4th, 2019

WHEN TO PROVOKE IS TO LIVE
唾棄すべきもの、そしてフランスの宝

 史上最高に美しいラブソングを提供してほしいというバルドーの願いを叶えようと躍起になり、一晩で『ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ』を書いた。これは(駄洒落ではないが)“オルガ”ンの幻想曲で、ゲンズブールは「肉体的な愛の絶望を歌った反セックス曲」と呼んだが、バルドーのセクシーなうめき声や吐息が随所に入っており「映画『エマニエル夫人』のポップス版」と評された。音響技師のウィリアム・フラジョレは、ボーカルブース内で“濃厚な愛撫”が行われるのを目撃したという。無理もないことだが、バルドーの夫ザックスは激昂し、彼女は同曲のリリースへの同意を取り消した。
 そんなわけで、作曲家ジョン・バリーとすでに離婚していた華奢なイギリス人女優兼歌手、バーキンとの出会いは、ゲンズブールにとっていささかホッとする出来事だった。初めての夜デートの後、ふたりはヴェネツィアのザ・グリッティ・パレスのスイートルームに泊まりに行き、たちまち離れがたい関係になった。「私はバルドーとはまるで対照的だった」とバーキンは述べた。「私に出会ったとき、セルジュは『ああ、君の体は俺が美術学校で描いていた体にそっくりだ』と言った。彼の好みは、大きな高い胸じゃなく、小さな下がった胸だったの。私はすでに子供を産んでいたから……。『少年の上半身と、少女の下半身を持つ女の子をいつも夢見ていた』と彼に言われたわ」
 バーキンは彼の装いもコーディネイトした。「ダブルブレステッドのウールのパルトーコートを、襟を立てて着せたわ。手袋のような靴を欲しがったから、レペットの白いバレエシューズを用意したら、靴下なしで履いていた。ジュエリーも買ってあげて、いつも3日分の無精ひげを生やしておくよう勧めたの」
 ゲンズブールはバーキンへ『ジュ・テーム』の再レコーディングを依頼した。「彼の希望は、私が聖歌隊の少年のように歌うことだった」とバーキンは回想した。「そしたら私が少しあえぎすぎてしまったの」
 世界各地での放送禁止や怒りの声が追い風となり、同曲は何十もの国で1位に上り詰めた(米国では、きわめて似つかわしい69位で止まった)。ゲンズブールは大いに喜び、免許もないのにレーシンググリーンのロールス・ロイス・シルバーゴーストを購入した(「運転と飲酒は両立できない。だから俺は後者を選んだんだ」というのが彼の言だった)。そしてリッツ パリのバーに出入りしては、色とりどりのリキュールを次々と制覇していった。
 ゲンズブールは2度の心臓発作に見舞われた。1度目は1973年に起きた。バーキンは次のように語っている。「アメリカンホスピタルへ運ばれる最中に、彼は自分のエルメスの毛布を持っていくと言い張った。担架にあった毛布が気に入らなかったから。それと2カートンのジタンを急いで手に取っていたわ」
 晩年の20年間も、彼は相変わらずセンセーショナルな存在だった。13歳の娘シャルロットと近親相姦を連想させる『レモン・インセスト』というデュエットをレコーディングしたり、テレビの生放送中に23歳のホイットニー・ヒューストンに対して「抱きたい」と発言したり……。
 1991年、あと1カ月で63歳になるはずのゲンズブールが2度目の心臓発作でこの世を去ったときは、その死を嘆き悲しむ声で溢れかえった。当時のフランス大統領、フランソワ・ミッテランも「私たちのアポリネール……彼はポップスを芸術にまで高めた」と彼を称えた。
 ゲンズブールが暮らした、パリ左岸地区のヴェルヌイユ通り5番地の2に立つ落書きだらけの小さな家は、彼が去ったときのまま残されている。黒いフェルト貼りの壁も、そこかしこに置かれた灰皿もそのままだ。カクテルシェーカーとグラスの置かれた黒いラッカー仕上げのカウンターも、玄関のクローゼットにしまわれたピンストライプのスーツも、鏡張りの寝室にあるミンクの毛皮をまとわせたベッドも当時のままだ。来場者は、彼のモットーを表す名曲『ラ・デカダンス』をスピーカーでいつでも再生できる。

ゲンズブールとふたり目の妻、フランソワーズ・アントワネット・パンクラッツィのパリでのウエディング・パーティ(1964 年)。

“バンブー”の名で知られた3人目の妻、カロリーヌ・パウルスと(1990年)。

THE RAKE JAPAN EDITION issue 27
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