Thursday, June 20th, 2019

Through the looking glass
ロスチャイルド家のパーティへようこそ

社交界のスター
「彼女が心を決めたら、阻止できるものなど地球上に何ひとつない」と男爵も驚嘆したマリー・エレーヌの猛進のおかげで、ジョルジュ・ポンピドゥーから、ルドルフ・ヌレエフ、ジェーン・バーキン、セルジュ・ゲンスブールまで、ヨーロッパ中のセレブリティがこぞってフェリエールを訪れた。
 ギーはファッショニスタとしても有名で、アンダーソン&シェパードのスーツを颯爽と着こなし、1985年には世界のベストドレッサー・リストに選ばれ、殿堂入りしている。一方のマリー・エレーヌも、親友イヴ・サンローランのガウンを愛用し、いつも人々の注目の的だった。
 彼女は、社交界で最も影響力があるリーダーとなっていた。エリザベス・テイラーとともにロスチャイルド家の常連客だったリチャード・バートンは、マリー・エレーヌについて皮肉交じりにこう書き残している。
「大きな鼻とぶ厚い口びるの醜い女性だったが、目だけは非常に美しかった。そしてふたつの言語(英語とフランス語)をマシンガンのように操っていた」
 マリー・エレーヌは、こだわりが強く完璧主義ゆえ、とんでもない逸話をいくつも残した。例えば、求めていたバターカップイエローの色ではないという理由で、400人分のスクランブルエッグを作り直させた話など、期待を裏切らないものばかりだ。
 しかしマリー・エレーヌが実生活では、ずっと障害を抱えていたことは、あまり知られていない。1962年頃から重い変形性関節症を患っており、寝たきりになることも多かったのだ。
「日常生活が痛みによって妨げられることが何度もあった」とギーは記している。
 彼女は派手なパーティを開く傍ら、医学研究の基金を募ったり、アーティスト、ミュージシャン、映画俳優、ファッションデザイナーのパトロンとしても活動していた。
「お金目的で才能を安売りする人がいる。私が行って、助けてあげなければいけない」と若い芸術家の境遇を嘆いた。
 1975年、ロスチャイルド一族はシャトー・ド・フェリエールをパリ大学に売り渡し、それに比べると質素な、敷地内のシャレー風の木造家屋に引っ越した。初めはこの場所を毛嫌いしていたマリー・エレーヌだったが、ド・レデとカトルーの力を借り、建物を“ロスチャイルド風”に改装したことで嫌悪感は次第に消えていった。
「デザイナーはどれだけ才能があっても、物事に対処できる強い意志を持ち合わせていなければ、何も成し遂げられない」というのが彼女の持論だった。カトルーも、これには思わず頷いた。

そして時代は変わった
 1980年代は、フランソワ・ミッテラン大統領によるフランスの銀行国営化で幕を開けた。手軽に満足感を得られることがもてはやされるようになり、ロスチャイルド流の仰々しいやり方は、突如として時代にそぐわなくなった。
 ギーはニューヨークに移住することになり、マリー・エレーヌは、病気で衰弱していたものの、アッパーイーストサイドのアパートのリノベーションに取り組んだ。彼女にとってこれが、大改装の最後の作品となった。
「二度とないでしょう。もう時代が違うから」と、彼女はニューヨーク・タイムズ紙のインタビューで悲しげに語った。亡くなる4年前のことである。
「パーティを開くって、健康的なことだと思わない? でももはや、人々は着飾る術を知らない。それを思うと胸が痛くなる。センスの良さや事物の美しさなどはひとつもなくなってしまった。あるのは、人々の低俗な本能を満たすものだけ」
 ロスチャイルド家のパーティについて、アレクシス・ド・レデは語っている。
「それはマジックみたいなものだった」
 現代のメット・ボールやアカデミー授賞式のアフターパーティは、ビジネスやプロモーションがメインである。それに比べると、ロスチャイルド家による夢のような催しは、すべての参加者にとって、イマジネーションを引き出し、自らの可能性を広げる場であった。
 夫人に先立たれた10年後、男爵はパリにて98歳で他界した。彼の自伝『Whims of Fortune』の献辞に、夫人の華麗なる人生を総括した言葉がある。
「マリー・エレーヌに捧ぐ。貴方がいなければ、すべてはただ“あるがままの状態”でしかなかっただろう」と。

有名な夜会、「ディネ・ド・テート・シュルレアリスト」でゲストを迎える男爵と男爵夫人。1972 年。

リチャード・バートンとウォーレン・ベイティと肩を並べるマリー・エレーヌ。1960 年。

THE RAKE JAPAN EDITION issue 15
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