Thursday, June 27th, 2019

A super sad true love story
悲劇の写真家、ボブ・カルロス・クラーク

写真家ボブ・カルロス・クラークは、セックスと、セックスをしている女性を
新たな視点で切り取った。それにより彼は悪名を馳せ、一世を風靡した。
そして自ら命を絶つことで、苦悩と栄光に満ちた人生を、伝説へと変えた。
text stephen wood

「ハリケーンに襲われたり、大惨事に見舞われると、われわれは過ぎ去った日々や、愛する人々の画像にすがり付く。それがまるで、本物であるかのように」
「写真とは、われわれが実在し、かつては丈夫で若々しく、時には美しかったことを示す、唯一の物的証拠だ」
 こうした言葉は、ボブ・カルロス・クラークの自著『Shooting Sex(セックスの撮影)』に登場する。その出版から4年後の2006年に、彼は自ら死を選んだ。
 著名な写真家であった彼は、暗室では甘い夢を次々と紡ぎ出したが、その夢を現実のものにすることはなかった。
 クリエイターとしてマンネリを忌み嫌う反面、秩序とコントロールを求めて必死になった。安易な商品化をよしとしない、誇り高き芸術家でありながら、自らの老いを受け入れられない、未熟な男でもあった。
 魅力的な女性にすぐ夢中になるくせに、妻なしでは生きられなかった。彼の写真は女性を美しく輝かせたが、フェミニストには目の敵にされた。作品は肉体的快楽への衝動を、一貫して表現していた。
 情け深い人柄に似合わぬ、研ぎ澄まされた刃物のような冷酷さを持っていた。明るいムードメーカーであったにもかかわらず、「神格化されるためには、若くして死ぬことが不可欠だ」と考えていた。

身を焼くような渇望感
 カルロス・クラークは、自分にここまで女性を撮りたいと思わせるものは何なのかと自問した。そしてその答えが、自らの生い立ちにあるということを認めていた。彼は1950年に、アイルランド南部のコークで生まれた。父チャールズ・カルロス・クラークは、2度の世界大戦で戦った元少佐だった。母マイラは労働者階級出身で、チャールズより30歳年下の3番目の妻だった。
 8歳になると、ダブリンのプレップスクール(進学目的の私立小学校)へ入れられた。13歳になると、軍の伝統を受け継ぐ名門、ウェリントン校に、彼曰く「強制収容」されることになった。家から放り出され、束縛だらけの教育を受けさせられた経験は、一生のトラウマとなった。「10年間ほとんど女性に遭遇しないという状況に追いやられたことで、身を焼くような女性への渇望感に苛まれた」と後に彼は綴った。
「魅力的な女性を目にするというのは、UFOを目撃するようなものだった。女性というものは、それほどまでに珍しくて縁遠く、強烈に刺激的な存在だった……」
 学校を卒業し、晴れてわが道を行くときがやってくると、自分の将来は「無名か悪名かの、ふたつにひとつであり、前者はあり得ない」と宣言した。
 ダブリンの広告代理店でお茶くみ要員として働き、ジャーナリストとしての素養を積んだ彼は、その後、北アイルランド紛争やベルファストのフォールズロードで起きた争乱の報道に携わった。このときに「カメラは“万能の口実”であることを学んだ」と記している。
 言うまでもなく、その口実が最大の威力を発揮したのは、女性にアプローチするときだった。アートカレッジに進んだ彼は、学友のスー・フレームという女性を口説く手段として、カメラを利用した。
「私には何の経験もなかったが、勇気を振り絞りスーを説得すると、彼女を浜辺へ連れていった。クロームメッキをふんだんに施した650ccのトライアンフ・ボンネビルの上で、ポーズを取ってもらった。太陽はまぶしくかすんで見え、穏やかな海風に彼女の髪がなびいていた。私は必死で写真家を気取った……現像タンクから現れたネガは、奇跡的にくっきりとシャープだった。数年後、スーと私はケンジントンの登記所で結婚した」
 しかし、ふたりの結婚生活は長続きしなかった。セックスを撮ることに熱中し始めたカルロス・クラークが、別の女性に心を奪われたからだ。
 彼は70年代前半にロンドン・カレッジ・オブ・プリンティングへ進学したのだが、学費を賄うために、女子学生らを説得し、成人向け雑誌のヌードモデルをやらせた。報酬は1回につき350ポンドで、それをモデルと折半していた。次第にスーと距離を置くようになった彼は、リンジー・ラドランドというモデルと恋仲になった。彼女こそ、後に彼のふたり目の妻となり、一粒種であるスカーレットを産み、ついには彼に先立たれる女性だ。
 カルロス・クラークはこの頃、自身の方向性を左右するもうひとりの重要な(かつ謎めいた)人物と知り合った。
“ザ・コマンダー”と呼ばれたこの男性は、「非の打ちどころのない、60代の銀髪の紳士」で、彼にロンドンのフェティシズム界を紹介した。
 この時カルロス・クラークの興味をかき立てたのは、フェティシズムの行為よりも、ラバーに身を包んだ女性を撮るというアイデアだった。フェティシズムはニッチで物議を醸しやすいジャンルだったが、彼は躊躇しなかった。それどころか、その後の10年間は、ピンヒールをはいた女性たちを、ひたすら撮り続けた。
「おかげで10年後には、自分でも恥ずかしくなるような評判が定着し、田舎のアダルトショップの代名詞になったよ」

『Incendiary Blonde(扇情的なブロンド)』(1985年)
© THE ESTATE OF BOB CARLOS CLARKE / THE LITTLE BLACK GALLERY

『Keeping Up With The Joneses(隣人と張り合って)』(1985年)
© THE ESTATE OF BOB CARLOS CLARKE / THE LITTLE BLACK GALLERY

THE RAKE JAPAN EDITION issue 15
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