April 2024
THERE WAS THE POPE AND THEN THERE WAS ENZO'
【フェラーリ創設者の物語】ローマ法王がいて、そしてエンツォがいた
エンツォが溺愛し、早世した息子にちなんで名づけられたフェラーリ・ディーノ246GT。
しかし、1954年に米国の販売代理店がマンハッタンにオープンするとジェームス・コバーン、スティーブ・マックイーン、クリント・イーストウッドといったセレブにとって、カヴァリーノ・ランパンテは必須アクセサリーとなった。
一方ヨーロッパでは、フェラーリはリヴィエラ・スタイルと結びついた。映画監督のロッセリーニは、妻のイングリッド・バーグマンのためにクーペ・スペチアーレを注文し、ロジェ・ヴァディムも、ブリジット・バルドー、ジェーン・フォンダといった主演女優らをカリフォルニア・スパイダーに乗せた。ポルフィリオ・ルビロサ、ジャンニ・アニェッリ(=THE RAKE)といったプレイボーイたちも熱心なファンだった。アニェッリにいたっては、1969年にフェラーリを買収するほど思い入れが深かった。
だが、エンツォにとって何より重要なのはレーストラックだった。彼はそれを「あらゆるものを犠牲にしなくてはならない、大いなる熱狂」と述べた。1957年のミッレミリアでは、アルフォンソ・デ・ポルターゴ侯爵がフェラーリ 335 S で事故を起こし、侯爵とコ・ドライバー、9人の観客が死亡した。新聞は“エンツォはまるで現代の我が子らを食らうサトゥルヌスだ”と糾弾した。彼は自分のドライバー、エンジニアが互いに争うよう仕向けた。「私は共同作業者に3つのものを与える。楽観的意識、創造的環境、そして原動力となる競争だ」とコメントした。
エンツォは1923年に若くしてラウラ・ガレッロと結婚したが、ラウラは生涯にわたって抑鬱に苦しんだ。それを悪化させたのは夫の言葉だった。エンツォは「男が女に愛していると伝えるとき、それは彼女に欲望を抱いているという意味に過ぎない。この世界で唯一の完全なる愛は、息子に対する父の愛だ」と述べた。愛人リーナ・ラルディとの間に息子ピエロをもうけ、別の家庭を持ってさえいた。ピエロは1945年に生まれたが、フェラーリを名乗ることを許されたのは、ラウラが亡くなった後のことだ(ピエロ・ラルディ・フェラーリ氏はフェラーリ社の10%を所有しており、2015年に株式が公開された際に億万長者になった)。