April 2024

THERE WAS THE POPE AND THEN THERE WAS ENZO'

【フェラーリ創設者の物語】ローマ法王がいて、そしてエンツォがいた

トレードマークのサングラスをかけたエンツォ・フェラーリ。

 エンツォの中で最大の存在は、いつも息子のディーノだった。病により、工業学校を2年で辞めざるを得なかったが、エンツォはディーノをいつも“エンジニアの我が息子”と呼んでいた。エンツォは亡くなったディーノを自分の知る最高の方法で慈しんだ。206や246など一連のモデルに、その名をつけたのだ。

 晩年のエンツォは、外見も態度も“イル・コメンダトーレ(コマンダー)”という愛称そのままだった。ヘアスタイルは白髪のオールバックで、ペルソールの奥の表情は読み取れなかった。

「彼は非常に自己中心的な人だった。自分のクルマやアイデアにのみ目を向け、情け容赦がなかった」。かつてフェラーリチームでF1チャンピオンになったニキ・ラウダはこう語った(ラウダ自身もエンツォのマシンで危うく死にかけている)。「だが、そのカリスマ性で、今日のF1界の中に、彼に比肩する人はいない」

 エンツォは1988年8月、日曜日の朝に自分のベッドで息を引き取った。90歳だった。彼の遺志に従い、埋葬は1時間もしないうちに行われた。もしエンツォが生きていたら、フェラーリの公式マグやバックパックに眉をひそめるかもしれない。ヒュー・ジャックマン主演で伝記映画を製作するという案に対しても同様だ。フェラーリが10年以上にわたりチャンピオンシップを獲得できていない状況に対しては、地団駄を踏むに違いない。

「生前の彼はフェラーリそのものでした」とダル・モンテ氏は語る。「彼は『自分はクルマを売っているのではなく、エンジンを売っているのだ』と言いました。私はどちらも違っていたと思います。彼が実際に売っていたのは、夢だったのです」

THE RAKE JAPAN EDITION issue 27
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