Monday, July 24th, 2017

THE SUMMER OF ’68

バルドーを射止めた男、ジジ

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胸元をはだけたシャツがトレードマークのジジ・リッツィ。1968 年、バンドのミュージシャンたちと。

プレイボーイから農家へ その後リッツィは、バルドーにとっての主演男優という座についたおかげで、俳優になる夢を追いかけることができた。とはいえ、まわってくるのは必然的にプレイボーイの役ばかり。彼のイメージは、ヴェルーシュカ、ジャクリーン・ビセット、シンシア・レノン、ナタリー・ドロン(アランの元妻)など、モデルや女優と立て続けに浮名を流したことで、ますます固まっていったのだった。

 また、ナイトクラブ通いで培った豊富な経験を生かし、レジタリアンの仲間と一緒に、1969年にミラノでイタリア初の本格的なディスコといわれる「ナンバーワン」という店を開いた。リッツィとその仲間が華やかに飲み騒いでいたフランスのディスコをモデルにしたこの店はあっという間にお洒落な人々の間で人気を博し、ローマのヴェネト通りに2軒目をオープンする。しかしこの2軒目が、リッツィの転落のきっかけとなる。1972年、店のトイレでコカインが見つかり、レジタリアンはイタリア当局の取り調べを受けることとなったのだ。

 ディスコは閉店に追い込まれ、リッツィもここは剣をさやに納めるのが賢明と判断。1970年代半ばにブエノスアイレスへと移住し、最終的にリハビリ施設に入院した。その後更正できたのは、彼の妻で、3人の子供の母親となったアルゼンチン人女性、ドローレス・マイヨールの内助の功のおかげだろう。さらに、彼は農家へと思いもよらない転身を遂げる。大農牧地帯であるパンパへ引っ越し、農作物を育てたり、牛を飼育して品評会で受賞したりするような生活を20年間続け、引退後はイタリアへ戻り、リグーリア海岸に自宅を構えた。

 この頃のリッツィは、シニアのセックスシンボルの代表格としてトークショーで話題を呼んだ。決して裕福ではなかったが、世界一魅惑的な女性のハートを射止めたひとりのプレイボーイとして数々の奔放な色恋話を語り、不可能なものなどないと思えた激動の時代を振り返った。伝説の人物として、彼は輝き続けたのだ。

 リッツィが死を迎えた場所は、くしくもかつて華やかに飛び回っていた彼の地だった。2013年、69歳の誕生日を祝いにサントロペを訪れていたときのことだ。「今でもあの魅力的な夏を思い出す」と、バルドーへの手紙に書き綴っている。

「それに、今でも僕は君の友達だ。では、また会える日まで」

 もの悲しげな口調に惑わされてはいけない。リッツィは生涯遊び人を貫いた。恋愛で悩んだことがあるかという質問に対し、「もちろん、何度もあるよ」と彼は答えている。「急いで立ち直るけどね」と付け加えて。

THE RAKE JAPAN EDITION issue 17
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