The Rakish ART ROOM Vol.10
貴殿も世界の名画オーナーに!
パウル・クレー
October 2020
2005年、スイスの首都ベルン郊外にオープンしたパウル・クレー・センター。人生の最初と最後をベルンで過ごしたクレーの、全作品における約40%にあたる4000点以上を所蔵し、さまざまなテーマやアプローチで、彼の芸術を紹介している。丘陵地帯から張り出してくるような波打つ外観の美術館は、国際的な建築家レンゾ・ピアノが設計した。©Aflo
さらに1935年、55歳のときに、クレーは粘膜が乾燥して皮膚が硬化し、死に至る難病「皮膚硬化症」を発症する。その2年後、ドイツでは国家が忌むべき「退廃芸術展」が大々的に開催され、クレーの作品も「退廃芸術」として公開された。展覧会終了後、展示作品の多くが焼却処分されるなどの憂き目にあったが、クレーは最後の力を振り絞り、この年を含めた3年間で2000点以上を制作。その後心臓麻痺により、1940年6月29日、60年の生涯を閉じた。
時代の巡り合わせとはいえ、さまざまな困難がクレーの晩年に押し寄せたことは、不運としかいいようがない。逆にこの時期を除けば、彼の人生は概ねうまくいっていた。特にバウハウスでの約10年間は、彼が最も輝いた時代ということができるだろう。
第一次世界大戦後、共和制となったドイツの新しい気風の中で生まれた、世界で一番革新的だったバウハウス。その教授のひとりとして、盟友カンディンスキーら才能ある同僚たちと切磋琢磨し、意欲ある生徒たちを指導した。経済的な安定を手にし、教授のためのモダンなマイスターハウスで快適な生活を送りつつ、自らの芸術や研究に没頭したクレー。穏やかな性格と東洋的な顔立ちにより「バウハウスのブッダ」と呼ばれた彼は、生徒からの人気も高かった。彼の誕生日には、教え子たちがプレゼントの花を飛行機の上からクレー邸に投下したという。
1923年に制作された《つなわたり》は、まさにクレーの人生の絶頂期に描かれたものだ。彼が長年芸術上のテーマとしてきた「バランス」を描いていることからも、象徴的な作品といえるだろう。
本記事は2020年9月25日発売号にて掲載されたものです。
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THE RAKE JAPAN EDITION issue 36