The Rakish ART ROOM Vol.10
貴殿も世界の名画オーナーに!
パウル・クレー
October 2020
バウハウスの初代学長で世界的建築家ヴァルター・グロピウスの設計による、バウハウス・デッサウ校。竣工:1926年、撮影:1930年代。©Aflo
そして1933年、アドルフ・ヒトラーが首相に就任してから2カ月後の3月、当時デュッセルドルフ美術アカデミーで教鞭をとっていたクレーの留守宅が、ナチス・ドイツの家宅捜索に遭う。その翌月、クレーはアカデミーを追放され、故郷ベルンへの亡命を余儀なくされた。
ねじれた階段と宙に浮く板上に張られた一本の綱。その上を、バランス棒を握りしめた綱渡り師が慎重に歩を進める《つなわたり》は、クレーがバウハウスの教授に就任してから2年目の1923年、44歳のときの作品だ。「油彩転写」という、油絵の具で黒く塗った紙をカーボン紙代わりに下絵を転写する、クレー独自の技法で制作された。ザラリとした描線や、油絵の具が黒くこすれた部分が、なんともいえない味となっている。「両極のバランスをとること」を、自らの芸術のテーマとしていたクレー。本作ではまさに、水平、垂直、斜めの線が危うい均衡を保つ中、あたかも一対の天秤のように、つなわたり師がバランスをとり、構図を安定させているのが印象的だ。
パウル・クレーのバウハウス時代 1933年、クレーと妻のリリーはドイツを去り、故郷ベルンに移り住んだ。当時、世界的にクレーへの関心が高まり、ヨーロッパ各国で彼の展覧会が開催されたが、クレーのドイツの銀行口座が凍結されていたために、生活は困窮していたという。またクレーの母親はスイス人であったが、本人は父親と同じドイツ国籍であった。そのため、ベルンの市民権を再三申請したが取得できず、クレーは生まれ故郷にありながら、亡くなるまで異邦人としてこの地で暮らさなければならなかった。
本記事は2020年9月25日発売号にて掲載されたものです。
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THE RAKE JAPAN EDITION issue 36