The Rakish ART ROOM Vol.08
貴殿も世界の名画オーナーに!
ピエール=オーギュスト・ルノワール
July 2020
当時、彼の身体は痛みで夜も眠れないほどリウマチに侵されていたが、創造への情熱はさらに高まっていた。絵を描くときには、皮膚がこすれて傷つかないよう手に布を巻き、反り返った指の間に絵筆をくぐらせて固定する。そんな状態でありながらも、彼はお気に入りのモデルたちにこのオリーヴの林でポーズをとらせ、自らはアトリエのガラス越しに、彼女たちの弾ける「生」を描き上げた。
こうした父の世話を焼き、貴重な話を聞き出したのは、当時20代になったばかりの未来の映画監督、ジャン・ルノワールである。第一次世界大戦で足に怪我を負った彼は、療養のため、父の家に戻っていた。
《大きな裸婦》(1907年、オルセー美術館)。
《横たわる裸婦(ガブリエル)》(1903年、オランジュリー美術館)1903-07年にかけて、ルノワールは室内でクッションを背に横たわる裸婦像を何点か制作した。かつては印象派で現代性(モデルニテ)を追求したルノワールだが、これらの裸婦像は、ルネサンス以来のヌードの伝統にのっとっており、ルノワールの古典回帰の傾向がよくわかる。
カーニュの巨匠を慕って、「コレット荘」にはマティスやドニ、ボナール、マルケなどさまざまな画家たちが訪れた。ジャンは、イタリア国境から徒歩でやってきた日本人画家・梅原龍三郎についても言及している。またルノワールの盟友セザンヌは、1906年に亡くなっていたが、彼の息子のポールが近所に越してきたことから、セザンヌ家とは家族ぐるみで交流していた。
1919年、12月3日。ルノワールが息を引き取ったその日の朝、彼は女中が摘んできたアネモネを描き、最後にこうつぶやいたという。
「この絵で、何かわかり始めたような気がするよ」
ルノワールが、晩年の最も晴れやかな数年を過ごした、カーニュの「コレット荘」は、今も当時のままの姿で、巨匠の在りし日の面影を伝えている。
本記事は2020年5月25日発売号にて掲載されたものです。
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THE RAKE JAPAN EDITION issue 34