The Rakish ART ROOM Vol.06
今買える、世界の名画 Vol.06
アルベルト・ジャコメッティ
July 2020
ジャコメッティのモデルになることは過酷以外の何物でもない。長時間不動のポーズをとらされる状態が、数週間、あるいは数カ月にわたって続くかもしれないからだ。そのため、彼のモデルは、家族や恋人など身近な人間に限られていたが、唯一、近親者以外でジャコメッティのためにポーズをとった異色の存在が、日本人哲学者・矢内原伊作(1918-1989)であった。
ジャコメッティが矢内原に初めて会ったのは、1955年の11月、サン=ジェルマン=デ=プレのカフェ、レ・ドゥ・マゴにおいてである。現代フランス哲学を学ぶためにパリ大学に留学していた矢内原が、親友で美術批評も手がけていたフランス文学者・宇佐見英治に頼まれて、彼のジャコメッティ論が掲載された雑誌『美術手帖』を届けにきたのである。すぐに意気投合したふたりは、時折会っては語り合うようになり、その親交は矢内原の留学期間中続いた。
1956年10月6日、帰国を2日後に控えた矢内原は、別れの挨拶をするために、ジャコメッティのアトリエを訪れる。このときジャコメッティが、矢内原をデッサンしたいと申し出たことが、彼の新たな創造の火蓋を切った。「よい記念になる」と、軽い気持ちでポーズをとった矢内原だったが、仕上がりに満足しないジャコメッティの求めに応じて、結局12月半ばまで帰国を延長。計72日間、1日も休まずジャコメッティのためにモデルを務めることになったのだ。その後もジャコメッティは矢内原をほぼ毎年パリに招待し、1961年まで彼の姿を写し続けた。
《Bust of Yanaihara[I]》1960年1962年以降、矢内原がジャコメッティのために渡仏してポーズをとることはなくなっていたが、4年後、ジャコメッティが急逝した後のアトリエには、矢内原を描いた肖像画と石膏像が残されていた。©Aflo
なぜジャコメッティは、これほどまでに矢内原に執着したのか? 東洋人特有の平板な風貌や、長時間不動でいられる忍耐強さなど、いくつかの理由が考えられるが、哲学者として自分の芸術を誰よりも理解していた矢内原を描くことが、ジャコメッティ自身の芸術の探求につながっていたのかもしれない。
1966年1月10日、心膜炎によりジャコメッティが65歳で永眠したときも、アトリエには、矢内原をモデルとした石膏像2点と油彩による肖像画8点が残されていた。
アルベルト・ジャコメッティ/ALBERTO GIACOMETTI (1901-1966)スイスに生まれ、フランスで活躍した、20世紀の最も重要な彫刻家のひとり。初期には、アフリカやオセアニアの彫刻やキュビスムに傾倒し、1920年代の終わりからは、シュルレアリスム運動に参加するなど、同時代の先鋭的な動きを存分に吸収。1935年よりモデルに向き合いつつも、身体を線のように長く引き伸ばした新たな彫刻のスタイルを確立。虚飾を取り払い人間の本質に迫る表現に挑んだ。©Aflo
本記事は2020年1月24日発売号にて掲載されたものです。
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THE RAKE JAPAN EDITION issue 32