WHEN TO PROVOKE IS TO LIVE

唾棄すべきもの、そしてフランスの宝

July 2019

text stuart husband
issue10

女優で歌手のジュリエット・グレコと(1959年)。

 1965年、18歳の典型的イエイエ・ポップ歌手であったフランス・ギャルが、ゲンズブールの作った『夢見るシャンソン人形』を歌い、大ヒットとなった。歌詞がほのめかしていたのは、文字通り彼女は“操り人形”ということだった。さらに新曲として提供した『アニーとボンボン』では、“あの小さな棒が舌の上に乗って、極楽気分になる”と歌わせた。「俺にとって、挑発は酸素だ」と彼は言い放った。

 数年後、ゲンズブールは19歳のブリジット・バルドーに夢中になった。ドイツ人実業家ギュンター・ザックスとの結婚生活がぎくしゃくしていたバルドーは、ゲンズブールとデートすることに同意した。ゲンズブールは非常に畏縮したといわれている(彼はのちに「彼女の胸が怖かった」とバーキンに告げている)。

 史上最高に美しいラブソングを提供してほしいというバルドーの願いを叶えようと躍起になり、一晩で『ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ』を書いた。これは(駄洒落ではないが)“オルガ”ンの幻想曲で、ゲンズブールは「肉体的な愛の絶望を歌った反セックス曲」と呼んだが、バルドーのセクシーなうめき声や吐息が随所に入っており「映画『エマニエル夫人』のポップス版」と評された。音響技師のウィリアム・フラジョレは、ボーカルブース内で“濃厚な愛撫”が行われるのを目撃したという。無理もないことだが、バルドーの夫ザックスは激昂し、彼女は同曲のリリースへの同意を取り消した。

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ゲンズブールとふたり目の妻、フランソワーズ・アントワネット・パンクラッツィのパリでのウエディング・パーティ(1964 年)。

THE RAKE JAPAN EDITION issue 27
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