August 2019

THE KING OF BLING

派手さを極めたエジプト最後の王

text stuart husband

ふたり目の妻、ナリマン・サディクとの結婚式。カイロにて(1951年)。

 このような話を聞いただけでは、孤立した指導者が貧困のどん底にある国民を尻目に自国の富を食い潰すという、典型的な泥棒政治に思えるかもしれない。他人に対して関心の薄いファルークが、ほとんど変わろうとしなかったことも、そんな不幸な事態を物語っていた。美食を好んだ結果の肥え太った体型や、悪役のようなカイゼル髭(この髭は『名探偵ポワロ』のモデルとなったという説もある)は、彼の堕落ぶりを象徴しているかのようだった。

 しかし現代の歴史学者たちは、ファルークが最後の後継者だったムハンマド・アリー朝が、いかに驚くべき成功を収めていたかを指摘する。同朝は、19世紀初頭ではオスマン帝国の片田舎であったエジプトを、たった数十年で強大な国家へと変貌させた。その勢力は、大英帝国が歯止めをかける必要性を感じるほど大きいものだった。混沌と暴力が蔓延る現代では、当時の華やかさ、品格、宗教的な寛容さ、洗練された社会を回顧して、“美しき時代”と呼ぶ人々さえいるのだ

あまりにも裕福だった王子 ファルークはオスマン帝国が急速に衰退していった第一次世界大戦後の1920年に誕生した。エジプトはイギリスの保護国で、彼の父親であるスルタン・アフマド・フアードが名目上の統治者であった。絶え間のない反乱に疲れたイギリスが、1922年にエジプトを独立国家として承認すると、フアードはすぐさま国王フアード1世を名乗り、ヒジャーズ(今日のサウジアラビア)、イラク、シリアで新たに誕生した君主たちと同格の地位につく。しかしフアードは、国民に対する愛情をほとんど持たなかった。彼はアルバニア系で、幼少期の大半をイタリアで過ごしていた。その姿は、不機嫌なムッソリーニがダリ風の口髭を生やしたようだった。アラビア語も話さず、アラブ人を「ces cretins(間抜け)」とまで評した。そんな彼は、世継ぎの生まれなかった最初の妻との結婚に終止符を打つと、24歳のナーズリー・サブリーと再婚。その8カ月後にファルークが誕生すると、フアードは貧しい人々に1万ポンド分、カイロのモスクに800ポンド分の金貨を分け与えるよう命じた。一方、サブリーはファルークの4人の妹を出産する間、オスマン帝国式のハレムに閉じ込められた。

 ファルークは実に裕福な幼少期を送った。王宮の外へ出ることは許されず、母親との面会も1日1時間しか認められなかったが、父親からは惜しみなく贈り物が送られた。11歳のときに与えられたオースチン・セブンもそのひとつだ。時間を持て余していた彼は、私道をオースチン・セブンで駆け抜けて楽しんだ。彼のいとこは「内気な彼は顔を見せに来るより、クルマを運転する方が好きだった」と回想しているが、教養がなく怠惰で噓が多く、気まぐれで無責任なうぬぼれの強い人間だった。ただ、表面的には頭の回転が速く、立ち振る舞いには魅力があった。

 また、父親とは異なり、政治的な権謀術数に必要な狡猾さや無慈悲な視点にも欠けていたという。例えば、フアードにとってのいたずらといえば、透明な酸の入ったバケツに金貨を沈め、無防備にそれを取り出そうとした使用人が痛みに悲鳴を上げるのを笑うものだったが、ファルークは宮廷の役人たちの頭を目がけてトマトやキュウリを投げつけて帽子を脱がせる、といった平凡ないたずらで満足した。

 ファルークは14歳になると訓練のためにウーリッジにある英国陸軍士官学校へ送り出された。同行した付き人の数は20人にのぼったという。ウーリッジでは、人々に“フレディ王子”の愛称で親しまれるようになった。時折り人目を忍んでタバコを吸っていたことは本人も認めているが、酒は一切口にしなかった。自分のことは自分でコントロールしたいという強い願望があったからだ。

左:モンテカルロで、イタリア人オペラ歌手のイルマ・カペーチェ・ミヌートロと(1954年)。右:亡命中に、カプリ島で家族とともに(1953年)。

THE RAKE JAPAN EDITION ISSUE 22
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