March 2022

MERCHANTS OF DOOM

英国“東インド会社”の歴史にみる教訓

text stuart husband

カルカッタに建つかつてのイギリス東インド会社の中核行政施設(1910年頃)。

 イギリス政府は同社の株式を一切所有していなかったため、その運営に対しては、最小限の監督権しか有していなかった。この不干渉主義的なアプローチは、スチュアート王家や護国卿オリヴァー・クロムウェルの治世下でも続いた。後の王政復古も、その路線を強化しただけだった。1670年頃にチャールズ2世が承認した新しい法令により、イギリス東インド会社は、支配下に置いた土地を没収して自社のものとし、貨幣を鋳造し、同盟を結び、必要に応じて宣戦布告する権利を付与された。さらには、支配地域において民事および刑事裁判権を行使し、要塞や軍隊を指揮する権利も与えられた。

 同社は1700年代までに、ロビー機関を通じ、イギリス本国における強大な政治的影響力を確立していた。さらに、商売敵を吸収したり、金の力で蹴落としたり、あっさり壊滅させたりした結果、自社が扱うすべての品目(塩、インディゴ染料、硝石、アヘンや害の少ない類似物質)において、事実上の独占貿易を確立していた。産業革命期になり、インドの商品に対する需要が増加すると、同社の権力と影響力は飛躍的に高まった。

ムガル帝国が狙われた理由 イギリス東インド会社がムガル帝国に狙いを定めたのは、決して偶然ではなかった。17世紀、財力においてムガル帝国と肩を並べる国家は、世界でも中国の明朝だけだったからだ。エリザベス1世がイギリス東インド会社の創設を承認した頃、インドの統治者であるムガル皇帝アクバルは、75万平方マイル(約195万平方キロメートル)に及ぶ帝国を治めていた。その範囲は、インドの大部分と現在のパキスタンとバングラデシュの全土に加え、アフガニスタンの大半を含み、人口はおよそ1億人にのぼった。ムガル帝国の首都アグラは、まさに当時のメガシティだった。70万人の人口を抱えるアグラと比べれば、ヨーロッパのどんな都市もちっぽけに見えたし、ラホールもまた、ロンドン、パリ、リスボン、マドリード、ローマを合わせた面積よりも広かった。しかもインドは全世界の製造業の4分の1を占めており、アッサムティーや絹の掛け布といった、インドがもたらす天然の産物や職人の細工物は世界中で珍重されていた。

 当初、イギリス東インド会社は、アクバル帝の後を継いだジャハンギール帝と交渉し、有利な通商関係を結ぼうと、嘆願者の仮面をかぶってムガル宮廷に近づいた。同社の最初の計画は、うまみのある東南アジアの香辛料市場に強引に参入するというものだったが、これはオランダと連合東インド会社(オランダ東インド会社)に阻まれてしまった。

イギリス東インド会社が所有した、マドラス(現在のチェンナイ)のセントジョージ要塞(1650年頃)。

 イギリス東インド会社の3年後に設立されたオランダ東インド会社も、同じように仰々しい特徴を備えており、やはり株主が出資する会社で、恐るベき艦隊を保有していた。そしてインドネシアを統治するための権利を付与されていたのだ。

 やがてジャハンギールの承認を得たイギリス東インド会社は、インドの東海岸と西海岸に小規模な拠点兼工場を建設し始め、更新料、織物、贅沢品を扱う採算性の高い貿易体制を編成することで、商業的成功の基盤を固めた。常勤職員が6人しかいないにもかかわらず、30隻の大型帆船を意のままに動かし、デットフォードに自社の造船所まで保有する同社の株式は、イギリス経済の重要な指標となり、すぐさまロンドン屈指の強大な金融機関として認められるようになった。

 初期のイギリス東インド会社は、ムガル帝国の洗練された商業ネットワークに群がる、新参ビジネスパートナーのひとつに過ぎなかった。だが、ムガル帝国の権力が衰退する中で、貿易特権の維持に力を注ぐことにより、次第に台風の目になっていった。ムガル帝国軍がペルシャの荒武者、ナーディル・シャーに敗れたことや、個々の継承国家が出現したことも、帝国の凋落を早めた。こうした新興国家の反抗的な統治者に加え、フランスやオランダ東インド会社のような競合相手に対応すべく、イギリス東インド会社は主にインド人傭兵(セポイ)で構成された大規模な常備軍を編成した。さらに、イギリスの海軍力やインドに駐屯するイギリス軍部隊に頼ることも可能だった。

 このような軍事面の強みに加えて、有望なビジネスチャンスを逃さない現地のインド人商人や銀行家による資金援助があったおかげで、イギリス東インド会社はこまごまとした交渉を無視し、相手の軍事的な急所を直接攻めることができた。

 1757年のプラッシーの戦いで、ロバート・クライヴ中佐率いるイギリス東インド会社軍は、ベンガル太守とフランス人同盟者らの軍を撃破し、カルカッタを攻略。これにより、オランダ東インド会社とフランスを南アジアから締め出すことに成功する。さらに7年後、イギリス東インド会社はブクサールの戦いでムガル皇帝シャー・アーラムの軍勢に勝利した。

シャー・アーラムがロバート・クライヴに巻物を手渡す場面。ベンジャミン・ウェスト画。

THE RAKE JAPAN EDITION issue 20
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