Wednesday, February 7th, 2018
THE ROARING TWENTIES
ベントレー・ボーイズの伝説
ふたつの世界大戦の狭間に自動車レース界を支配し、
イギリス中を虜にしたベントレー・ボーイズの伝説とは?
ベントレーのワークスカー(愛称「オールド・マザー・ガン」)が1929年のル・マン24時間レースでゴールを決めた瞬間は、英国がそのレース史上で、最も輝いた一瞬でもあった。ベントレーが1位から4位までを独占したのだ。
私たちが現在自動車レースに感じる魅力や楽しさのほとんどは、歴史を遡れば、ベントレーのクルマでレースに参戦し、ザ・サヴォイで遊び狂っていた英国特権階級の子弟たちが始めたことといえるだろう。ドライバーたちは特に肩書きを意識していたわけではなかったが、いつの間にか「ベントレー・ボーイズ」と呼ばれるようになった。
ベントレー・ボーイズの誕生
W.O.ベントレーは、天才的なエンジニアだったが、ビジネスマンとしては問題があった。クルマはレースカーとしては素晴らしかったが、製造コストがかかりすぎたのだ。役員たちはベントレーの経営に批判的で、会社はキンバリーで巨万の富を築いたダイヤモンド王の2代目、ウルフ・バーナートに売却された。
バーナートは1925年に初めてベントレーを購入し、24時間走行の距離で世界記録を出していた。1926年にはすっかりベントレー車の虜になっており、会社を買収する決心をした。バーナートがベントレーを購入したことから、本格的なベントレー・ボーイズの時代が始まる。
1925年のル・マンでは結果を出せず、1926年にはジョゼフ・ダッドリー・ベンジャーフィールド、サミー・デイヴィス組が最後の1時間にクラッシュした。同ペアは1927年に再び参戦した。
スタートから約5時間半後、メゾン・ブランシュのコーナーで玉突き事故が起き、先頭集団のほとんどが巻き込まれリタイアしてしまった。デイヴィスもスリップし、横向きで数台のクルマに衝突したが、クルマはなんとか走れる状態だった。彼はよろよろとピットへ戻り、クルマを修理してから、レースに復帰した。トップとは相当の距離が開いていたが、何台ものクルマをごぼう抜きし、劇的な逆転勝利を飾る。チームは国民的な英雄としてイギリスへ凱旋することになった。
1928年から1930年のル・マンでは、ウルフ・バーナート本人が、今日まで破られていない大記録を打ち立てた。それは、3度の出場で3度とも優勝したことである。パートナーとして彼の勝利を支えたのが、サー・ヘンリー・バーキン、グレン・キッドソン、バーナード・ルービンだ。この4人は、ベントレー・ボーイズの一団のなかでも中心的なドライバーだった。当時は、「日が沈まないのは大英帝国か、ベントレーの勝利か」という黄金時代であり、クルマのスピードも祝勝パーティーの盛大さも右肩上がりだった。

左から:バーナード・ルービン、ウルフ・バーナート、サー・ヘンリー・バーキン、フランク・クレメント、ジョセフ・ダッドリー・ベンジャーフィールド。フランス、ル・マンにて、1928年。