A super sad true love story

悲劇の写真家、ボブ・カルロス・クラーク

March 2024

『Infanta Electronica(エレクトロニカ王女)』(2004年)
© THE ESTATE OF BOB CARLOS CLARKE / THE LITTLE BLACK GALLERY

 8歳になると、ダブリンのプレップスクール(進学目的の私立小学校)へ入れられた。13歳になると、軍の伝統を受け継ぐ名門、ウェリントン校に、彼曰く「強制収容」されることになった。家から放り出され、束縛だらけの教育を受けさせられた経験は、一生のトラウマとなった。「10年間ほとんど女性に遭遇しないという状況に追いやられたことで、身を焼くような女性への渇望感に苛まれた」と後に彼は綴った。

「魅力的な女性を目にするというのは、UFOを目撃するようなものだった。女性というものは、それほどまでに珍しくて縁遠く、強烈に刺激的な存在だった……」

 学校を卒業し、晴れてわが道を行くときがやってくると、自分の将来は「無名か悪名かの、ふたつにひとつであり、前者はあり得ない」と宣言した。

 ダブリンの広告代理店でお茶くみ要員として働き、ジャーナリストとしての素養を積んだ彼は、その後、北アイルランド紛争やベルファストのフォールズロードで起きた争乱の報道に携わった。このときに「カメラは“万能の口実”であることを学んだ」と記している。

 言うまでもなく、その口実が最大の威力を発揮したのは、女性にアプローチするときだった。アートカレッジに進んだ彼は、学友のスー・フレームという女性を口説く手段として、カメラを利用した。

「私には何の経験もなかったが、勇気を振り絞りスーを説得すると、彼女を浜辺へ連れていった。クロームメッキをふんだんに施した650ccのトライアンフ・ボンネビルの上で、ポーズを取ってもらった。太陽はまぶしくかすんで見え、穏やかな海風に彼女の髪がなびいていた。私は必死で写真家を気取った……現像タンクから現れたネガは、奇跡的にくっきりとシャープだった。数年後、スーと私はケンジントンの登記所で結婚した」

 しかし、ふたりの結婚生活は長続きしなかった。セックスを撮ることに熱中し始めたカルロス・クラークが、別の女性に心を奪われたからだ。

 彼は70年代前半にロンドン・カレッジ・オブ・プリンティングへ進学したのだが、学費を賄うために、女子学生らを説得し、成人向け雑誌のヌードモデルをやらせた。報酬は1回につき350ポンドで、それをモデルと折半していた。次第にスーと距離を置くようになった彼は、リンジー・ラドランドというモデルと恋仲になった。彼女こそ、後に彼のふたり目の妻となり、一粒種であるスカーレットを産み、ついには彼に先立たれる女性だ。

THE RAKE JAPAN EDITION issue 15
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