Thursday, July 11th, 2019

LOUIS,KING OF THE SWINGERS
英雄の裏の顔、マウントバッテン卿

乗っていたフィッシングボートがIRAに爆破されるという、衝撃的な死を遂げた
ルイス・マウントバッテン卿。彼は英国紳士、政治家、そして英雄的な軍人だった。
一族に降りかかった不幸をきっかけに、野心の追求に燃えた、その一生を振り返る。
text tom Cheshire

 ルイス・マウントバッテンは、典型的な英国の英雄とみなされてきたが、本当はドイツ人だったと知ったら驚くだろうか。彼は、ルイス・アレクサンダー・フォレ・バッテンベルクとヴィクトリア女王の孫娘の四番目の子として生まれた。バッテンベルクはドイツの名門貴族として知られている。
 一時はニッキーと呼ばれていたが、ロシア皇帝ニコライの来訪をきっかけにニックネームの変更を余儀なくされ、ディッキーという呼び名が選ばれた。本名と全く関係のない名前だが、本人は気にしていなかったようだ。しかし名前の半分がドイツ語だったことは厄介な問題を引き起こすことになった。

忌み嫌われたドイツ的なもの
 英国では第一次世界大戦の勃発により、ドイツ的なものはすべて忌み嫌われるようになったのだ。これは、ルイスの父親にとって深刻な事態だった。ドイツ語の響きを避けるため、ファミリーネームをマウントバッテンに改名しなければならず、さらには、英国海軍の第一海軍卿という地位を「辞任せよ」という屈辱的な命令が下された。
 この挫折でもっとも辛苦を味わったのが息子のルイスである。英国王立海軍兵学校へ入学し、すでに海軍でのキャリアを歩み始めていたのだ。家族の名誉を取り戻したいという情熱が、彼を別人に変えた。
 鉄のように頑強な英国の英雄は、こうして生まれた。ハンサムで、チャーミングで、ひたむきで、勇敢だった。しかしマウントバッテンには“無私無欲”という言葉はふさわしくない。国家のために多くを捧げたが、大きな見返りも求めた。彼は時に強引とも言えるやり方で、名声や勲章を手に入れた。
「自分の知るかぎり、私は一番のうぬぼれ屋だ」
 押しが強く、有名人の話をひけらかし、とりわけ晩年はうんざりするような人物だったが、その被害を受けたのはロイヤルファミリーと王立海軍の幹部だけだった。英国の一般市民にとって、このドイツ系プリンスは、英雄そのものだった。1979年に、家族とボートで出航中にIRAの手により殺害されたときには、国中が大きな憤りに包まれたが、これが北アイルランドとの和平のターニングポイントになったといわれている。

二人ともバイセクシャル
 若い頃は、プレイボーイというイメージが強かった。「驚くほどにハンサム」と言われた海軍将校時代は、ウィンストン・チャーチルや、従兄弟にあたる皇太子時代のエドワード8世と親交が深かった。ファッションにも定評があり、アイボリーカラーのウエストコートで流行を先取りし、ファスナー留めのトラウザーズをはくパイオニアでもあった。
 1922年に、大富豪の銀行家アーネスト・カッセル卿の愛孫、エドウィナ・アシュレイと結婚したことで、マウントバッテンの人生は華やかさを増す。彼女はインドを旅行中だった彼を追いかけ、彼女のほうからプロポーズをしたのだ。二人は“ファビュラス・マウントバッテン夫妻”としてセレブの象徴となる。
 二人にはゴシップが尽きなかった。マウントバッテン自身も告白している。
「エドウィナと私が結婚生活を営んだのは、いつも他人のベッドの上だった」
 二人はともにバイセクシャルで、またエドウィナには“野郎たち”と呼ぶ多くの愛人がいた。スキャンダルのせいで転落しかけたこともある。
 1932年、日曜紙『ピープル』のゴシップ欄に、マウントバッテン夫人が「有色人種の男性と不適切な関係」にあるという記事が掲載されたのだ。夫妻は同紙を告訴し、かろうじて勝訴する。その男性は有名なジゴロで、キャバレー・アーティストの“ハッチ”ことレスリー・ハッチソンだった。夫人は彼に宝石をちりばめたC社のペニスケースを贈ったこともあったという。
 第二次世界大戦が勃発すると、マウントバッテンは大佐として、駆逐艦ケリーの指揮を執り、深い霧のなかで英国の護衛艦を導いたことでたちまち頭角を現した。駆逐艦ケリーは、1942年公開の戦争映画『軍旗の下に』のモデルともなった。ノエル・カワード主演のこの映画は、マウントバッテンにとって、素晴らしいプロパガンダとなった。
 名を上げたいという彼の願望はとどまることを知らず、マウントバッテン・ピンクという新しい軍艦用の迷彩色まで考案した。終戦までに、東南アジア連合軍最高司令官となり、シンガポールで日本軍の降伏を受理した。

コードネームは“誘惑作戦”
 平和が訪れると、彼は最後のインド総督となり、植民地だったインドの独立とパキスタンの分離という難しい任務に就いた。これには、エドウィナの内助の功があったという。彼女はインドの指導者ネルーを誘惑したといわれている。おそらく夫の手引きがあったのだろう。マウントバッテンは、彼女の任務を“誘惑作戦”と呼んだ。
 この1947年は、マウントバッテンにとって、別の意味で成功の年でもあった。甥のフィリップが現在のエリザベス女王と結婚したのだ。これは、フィリップの長く苦しいキャンペーンが実を結んだ結果である。当時18歳だった彼は、叔父の強い勧めで、弱冠13歳の未来の女王に、手紙を書き続けていたのだ。フィリップは、叔父からの提案でマウントバッテン姓を名乗っていたため、その名は王室の中枢に位置づけられた。
 フィリップにとって、ディッキーは父親のような近しい存在だったが、この関係は息子のチャールズにも受け継がれた。チャールズは、実の祖父を亡くしていたことから、彼のことを祖父のように慕っていたという。
 とりわけ喜ばしかったのは、1954年に第一海軍卿に昇格したことだろう。かつて、彼の父親が辞任に追いこまれたポストだったからだ。そこからさらなる出世を果たし、1959年から1965年までは国防参謀総長を務めた。
 巷で言われていることが本当だとしたら、彼はさらに上を目指していたのかもしれない。複数の消息筋によると、1968年に行われた新聞王セシル・キングとの会談で、マウントバッテンがクーデターを起こし、国家のトップとなるという議論が交わされたという。野心家のマウントバッテンでも、それはさすがに無理な話だろう。どれだけドイツの血が濃かったとしても、英国紳士が反逆を企てることなどないのだから。

インド総督時代のマウントバッテン卿。1947年にはインドの独立とパキスタンの分離という難しい任務に当たった。

1924年6月4日に、エドワード8世(前列左から3人目)に随行し、日本を訪れた際の一枚。ルイス・マウントバッテンは、後列左端。全員が着物を着ている珍しい一枚。

1956年、スエズ動乱に関する会議に出席するため、ダウニング街10番地の首相官邸に到着したマウントバッテンに敬礼する警官。

THE RAKE JAPAN EDITION issue 08

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