February 2018

La Vida Bella

秘密の楽園、マルベーリャ

text nick foulkes

陽気に騒ぐビョルン・ボルグ(1980年)

通信手段が限られた楽園 すると間もなく“モーテル”という言葉は消え、単に“マルベーリャ・クラブ”という名で知られるようになった。

 アルフォンソは、物事の魅力を伝える天才だった。イングランドで狩猟をしているときも、サン・モリッツでスキーを楽しんでいるときも、ニューヨークでナイトクラブに通い詰めているときも、その土地をことあるごとに褒めたたえた。彼の言葉を聞いていると、そこはまるで、美しい人々が集う新時代のエデンの園のように思えてくるのだった。

 マルベーリャ・クラブのサービスは、今日ではベアフット・ラグジュアリーと呼ばれるものであっただろう。ただ、今では当然のように享受している贅沢の大部分は存在しなかった。スパや高級料理はなかったし、最初の頃は電話すら備わっていなかった。マルベーリャ・クラブと外界をつないでいたのは、町とクラブを自転車で1日何往復もして、電報を送ったり、新聞を買ったり、タクシーを呼んだりするベルボーイだけだったのだ。

 そんなクラブにも、ついに通信手段に投資する日がやってきたのだが、銅線を自前で用意させられるなど、まさに投資と呼ぶにふさわしい事業だった。ただ、砂利道の脇に並ぶ柱に銅線を固定する作業は、電話会社が快く引き受けてくれた。バーの奥の壁に取り付けられた電話は、すぐさまホテルの目玉のひとつになった。当時、マルベーリャには電話線が2本しかなかったため、電話をすることは一種の社交的行為になった。あらかじめ予約を入れて、クラブへ来て電話をかけるという慣習は1960年代初期まで続いた。

 しかし、アリストテレス・オナシスが滞在者としてやってきて、滞在先のヴィラと自身の“世界帝国”をつなぐ6本の電話線を要求した頃になると、マルベーリャ・クラブはれっきとした名リゾートになっていた。オナシスと覇を競ったスタブロス・ニアルコスもマルベーリャ・クラブを訪れたことは、言わずもがなだ。

THE RAKE JAPAN EDITION issue 11
1 2 3 4 5 6 7

Contents