Monday, July 6th, 2015

LA BELLE ET LABÊTE

セルジュ・ゲンズブールとジェーン・バーキンの物語
フランス一純粋で、淫靡だった2人
セルジュ・ゲンズブールとジェーン・バーキンは、同世代の人々にとって黄金のカップルだった。
2 人の大恋愛は、今なお私たちの心を揺さぶり、魅了し続けている。
by joycelyn shu

2人の毎日とは? 大みそかはパリのマキシムで過ごすのが毎年の恒例だった。ゲンズブールは、マキシムに来ている他の客が上の世代の人々ばかりであることを面白がり、バーキンは、モノグラムをあしらった陶器類をこっそり失敬することが好きだった。
 2人の子供たちが小さい頃、ゲンズブールとバーキンは、夕方になると子供たちに夕食をとらせ、寝かしつけた後、着替えを済ませて自分たちの夕食を食べに出かけた。そして、一晩中クラブを渡り歩いた後、早朝に慌てて帰宅するなり子供たちを学校へ送り、彼らを迎えに行くまで寝て過ごすのが常だった。毎日がその繰り返しだった。
 ゲンズブールは、スキャンダラスな行為によって世間を呆れさせるのが大好きだった。娘が13歳のときには、『レモン・インセスト』という際どいデュエット曲を録音した。この作品には、「決して一線を越えない私たち」という歌詞や、彼と娘がベッドに横たわる映像が含まれていた。作品の構想は衝撃的だが、バーキンやシャルロット・ゲンズブール、家族ぐるみの友人たちによると、彼の本当の制作意図は、父から娘への純粋な愛の歌を録音することだったという。
 ゲンズブールはこの他にも、あっと驚くような言動を披露し続けた。例えば『ラ・マルセイエーズ』のレゲエバージョンを制作したり、テレビの生放送中に、税金を払った後に残った金額として、500フラン札を燃やしたりした。また、23歳のホイットニー・ヒューストンに対し、生放送中に「ヤリたい」と発言したこともあった。


ゲンズブールの生い立ち
ロマンチストでありながら、同じくらい皮肉屋でもあったゲンズブール。多面的な彼の心の内を知る手がかりは、彼の生い立ちにある。
 1928年にパリで生まれた彼は、リュシアン・ギンズブルグと名付けられた。ジェーン・バーキンによると、彼は演奏活動を始めるときに名前を変えた。よりアーティスティックな名前を望んだことと、“リュシアン”が彼に理髪師を連想させたことが理由だった。
 彼の両親は、1919年に帝政ロシアからパリへ逃れてきていた。父はクラシック音楽を学んだピアニストで、3人の我が子全員にピアノを教えた人物だが、逃亡先のパリでは、女装バー、キャバレー、カジノで演奏して生活費を稼ぐことを余儀なくされた。
 1940年、パリがナチスに占領されると、ギンズブルグ家の人々は自分たちがユダヤ人であると宣言し、それを示す黄色い星を身に着けることを強制された。一家は偽造書類を使ってリモージュに逃げ延び、戦争が終結してパリへ戻れる日まで糊口をしのいだ。
 陽気さに満ちあふれ、社交的で、大口ばかり叩いているように見えたゲンズブールだが、本来は孤独で、思い悩むことも多かった。彼の性格は、あたかも光と影が同居するチェーホフの作品のように、ロシア的な愁いを含んでいたのだ。
 ゲンズブールの姉、ジャクリーヌ・ギンズブルグは、彼のシニカルなキャラクターは、いつも自分を守るためのものだったと述べている。洗練された仮面の下には、繊細で傷つきやすい心が存在していたのだと。

issue02_labelleetkabete_04

issue02_labelleetkabete_05

issue02_labelleetkabete_06

ジェーン・バーキンとセルジュ・ゲンズブールは、紛れもなくソウルメイトだった。2人の親しい関係は、1991年にゲンズブールがこの世を去るまで続いた。

issue02_labelleetkabete_07

issue02_labelleetkabete_08

issue02_labelleetkabete_09

THE RAKE JAPAN EDITION issue 02
1 2 3 4

Contents