Thursday, April 2nd, 2015

SKIN DEEP
海底に200年間眠る幻のロシアン・レザー

この見事な靴に用いられている革は、
228年前に沈没した貨物船から引き揚げられた。これはまだ、
発見、回収、丹念な加工と職人技にまつわる、
心躍る物語の始まりにすぎない。
original text james dowling
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ジョージ クレバリーで作られたロシアン・レザーのレースアップブーツ。同レザーは通常のカーフの約2倍の厚みがあるため、カントリー調のモデルと相性がいい。ロンドンのクレバリーの店でロシアン・レザーの靴をビスポークすると、オックスフォードで£3,750~、ブーツで£5,000〜 http://gjcleverley.co.uk

200年前の沈没船に眠る幻のロシアン・レザー

“古靴のように心地よい”という言い習わしを基準にするならば、写真の靴は足の専門医が夢に見るような品だ。麻と革を積んでサンクトペテルブルクからジェノヴァへ向かう途中、イングランドの南岸沖で沈没したディー・フラウ・メッタ・カタリーナ・フォン・フレンスブルク号(Die Frau Metta Catharina von Flensburg、通称メッタ・カタリーナ号)の話は、多くの読者が耳にしたことがあるだろう。しかし、それがどんな革であったか、あるいは、その上等の積み荷がいかにしてG.J.Cleverley&Co(ジョージ クレバリー社)に行き着いたかをご存じの方は少ないはずだ。
 1786年12月10日の夜、デンマークのブリガンティン型帆船、メッタ・カタリーナ号は強風に見舞われた。同船は建造後4年しか経っていないうえ、船首側と船尾側の両方を錨で固定していたが、荒天を耐え抜くことはできなかった。事故当時、メッタ・カタリーナ号は、帆船隊用のロープやひもの原料である麻をヴェネツィアのロープ製造所へ運ぶ途中だった。同船はその後、ジェノヴァへ革を届けることになっていた。近隣地域から調達できたはずなのに、ジェノヴァの人々はなぜロシアの革を欲しがったのか? 彼らは単に革が欲しかったのではない。高い防虫性と防水性を誇る革だからこそ欲しがったのだ。ジェノヴァの人々は、その製法と効果について知っていた。数年前までウクライナに交易拠点を有し、オスマン帝国と交易していたからだ。

2世紀の眠りから覚めた宝 メッタ・カタリーナ号が沈没してから約200年後の1973年、ブリティッシュ・サブ・アクア・クラブのプリマス湾支部に所属する考古学チームが、船で使われる号鐘を偶然発見した。号鐘には、船名や船種、建造年を示す“Die Frau MettaCatharina de Flensburg Brigantine Anno 1782”という銘が刻まれていた。沈没船はコーンウォール側のプリマス湾に沈んでいたため、その所有権はコーンウォール公領にあった。幸運なことに、コーンウォール公爵であるチャールズ皇太子殿下がブリティッシュ・サブ・アクア・クラブの総裁も務めていたことから、号鐘は同クラブに譲られた。殿下はさらに、考古学チームに海底の賃借権を与え、沈没船の詳しい調査を後押しした。チームは船内で驚くべき量の革を発見し、検査のためにサンプルを回収した。目的は炭疽菌の痕跡が含まれていないかを調べることだったが、それに加え、どの動物に由来する革かも調べることになった。検査結果は、いずれの点でも喜ばしいものだった。革には長期間生存する細菌はいなかった。そして素材は間違いなくトナカイの皮であり、ロシア式の処理が施されていることが明らかになったのだ。

“He welcomed wet days because on them he could stay
at home without pangs of conscience and spend the
afternoon with white of egg and a glue-pot, patching up
the Russia leather of some battered quarto.”
—Of Human Bondage, W. Somerset Maugham

“彼は雨の日が好きだった。雨の日には後ろめたさを感じることなく午後の間ずっと家に籠り、
卵白とにかわ鍋を使って、くたびれた四つ折り判の本に使われている
ロシアン・レザーを修復できたからだ。”
――ウィリアム・サマセット・モーム『人間の絆』

幻のレシピが生んだトナカイ革 かつて、ロシアの皮なめし職人は、柳とポプラの樹皮から作った混合液を穴に入れ、そこに皮を1週間以上浸した。次に皮を洗浄し、松と柳の樹皮から作った混合液の中に16日間浸けた。こすり洗い、すすぎ、乾燥を経た皮を、続いて製革工が加工した。製革工は、カバノキから取れる油とアザラシ油を混ぜたものを塗り、皮を柔らかくすると、板にくぎで固定して休ませたあと、染色した。染色の際は、白檀とコチニール(コチニールカイガラムシから得られる色素で、かつてはカンパリを赤く着色するために使用された)の調合物をブラシで表面に塗って乾燥させる作業を、求められる色調になるまで繰り返した。その後、カバノキとアザラシの油をさらに塗り、色止めにトラガカントゴムの薄い層を施した。
 こうしてできた革を台に載せ、重りをつけた溝のある鋼鉄製シリンダーをその上で転がすことで、表面に細かい平行線の模様をつけた。そして革を60度回転させ、もう一度同じ作業をすることにより、ダイヤモンド形の網目模様に仕上げたのだ。この模様は、独特の香りと並ぶ、この革の特徴だ。すべての手順を終えるには、12 ~ 18カ月の期間がかかった。
 1973年に発見されたとき、革はきつく束ねられ、硬い草を編んで作ったマットに包まれていた。長年のうちに、マットの大部分が分解していたために(なお、もうひとつの積み荷である麻は、完全に溶解していた)、外側の革の多くは状態が悪く、触れると濡れた紙のように破れるものもあった。それでも、まだ使用できる革がいくつか回収された。この革を一体どうすべきか、それが問題だった。そのとき、潜水チームのリーダー、イアン・スケルトンの友人が、ロビン・スネルソンという人物が革小物を作って販売していることを思い出した。200年も海に沈んでいた革を蘇らせる方法を、果たしてロビン氏は見つけられたのだろうか?
 ロビン氏は、その革を真水に数日間浸し、塩と黒い泥を取り除くと、フレームの上で乾燥させた。続いて、かつてロシアの皮なめし職人が使ったものと同じ材料をいくつか用意し、革を処理した。この処理によって、革から失われていた“あるもの”が蘇った。そう、あの独特の香りである。状態を安定させたおかげで、この革は使用できるようになったが、その量は使いきれないほど多かった。ロビン氏は同業者にこの革を販売し始めた。

トナカイの革、クレバリーへ すると、あるアメリカ人の客が、ロンドン旅行の途中で、ジョン・カネーラ氏にこの革について話をした。カネーラ氏は当時、ニュー&リングウッド(New &Lingwood)でジョージ・クレバリー氏とともに働いていたため、この話は自然と彼にも伝わった。クレバリー氏は、ロシア船の積み荷に心を惹きつけられた。同業者であった父親から、かつてのロシアの革の驚くべき特性について聞いたことがあったからだ。そして彼自身も、シューメーカーのトゥーシェックで38年間働いた経験があった。110年以上営業したトゥーシェックでは、この素材が間違いなく頻繁に用いられていたはずだ。
 そんなわけで、カネーラ氏とクレバリー氏は、ファルマスまで革の状態を確かめに行った。そして2 ~ 3枚の革を持ち帰り、ニュー&リングウッドで何足かの靴を制作した。この素材で靴が作られるのは、実に1世紀以上ぶりのことであった(このとき作られた靴のうち、1足はチャールズ皇太子に献上された)。大きな需要があることを確信したクレバリー氏は、修復された革を定期的に購入することを約束した。握手のみで結ばれたこの契約によって、クレバリー氏(および彼の後継者であるジョージ・グラスゴー氏とジョン・カネーラ氏)は、ロビン氏が修復した革の中から、希望するものを最初に選べることになった。今日でも、カネーラ氏とグラスゴー氏はコーンウォールを訪れ、店で使う革を選んでいるが、供給量は徐々に減少している。イアン・スケルトン(沈没船を発見したダイバーで、チャールズ皇太子の布告によって革の回収を許可されている唯一の人物)が、4年前に潜水をやめたからだ。しかし、今日なお革の40%は、プリマス湾の厚い泥の下で、空気に触れることなく無事に眠っていると推定されている。

THE RAKE JAPAN EDITION issue 02

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