COMING TO AMERICA

ニューヨークの華麗なる亡命者たち

September 2019

text nick foulkes

ネルズに到着したジョージ・マイケル(1988年)。

 コクランこそ、ニューヨークをグローバルなナイトライフの中心に育てた男だ。1966年後半には、空間プロデューサーに転身し“チーター”という店をオープン。格納庫のような広いスペースに無数のイルミネーションや鏡をしつらえ、最新音響システムを導入して、2,000人も収容できる巨大ディスコの原型を作り上げた。

 チーターではライブも開催し、ほとんど無名だったブリティッシュ・ロックバンド、ピンク・フロイドが、ここで初のニューヨーク公演を行った。ザ・スクワイアーズというバンドも駆け出しの頃に演奏したが、そのギタリスト、ジミ・ヘンドリックスはすぐにソロとして名を上げた。

 チーターがオープンした1966年から10年後もディスコは依然として人気があり、3人の若き起業家が、古いオペラハウスに110万ドルもつぎ込むほどだった。彼らはその劇場にきらびやかな照明や鏡、音響システムをしつらえ、2,500人を収容できるディスコにしようと考えたのだ。

 オープンしたのは1977年、サムの息子と名乗る連続殺人犯がニューヨークを震撼させていた頃で、同年の7月13~14日には有名なニューヨーク大停電も起きた。街の様子は一変し、企業の倒産が増え、犯罪が急増し、警察の腐敗が蔓延していた。

 もはやニューヨークは、20世紀半ばにヨーロッパからの亡命者を魅了したような、きらめく摩天楼と華やかなナイトクラブの街ではなかった。むしろ衰退する都市で、陰りゆく街だと思われていた。

 だが古いオペラハウスを改修したチーターの後継店だけは、異様な盛り上がりを見せていた。案の定、この新しいディスコは、違法にアルコールを販売したとして摘発される。しかし、店はソフトドリンクを売りながら、酒類免許を得るまで持ちこたえ、経営者が投獄される1980年まで営業を続けた。

 これほど短期間で歴史に名を残し、世界的な名声を博した店は過去にない。チーターの記憶は薄れているが、“スタジオ54”の名で知られる54番街の古いオペラハウスのことは、いつまでも人々の記憶に残るだろう。

スタジオ54で新年を祝うアンディ・ウォーホルとビアンカ・ジャガー、友人たち(1978年)。

THE RAKE JAPAN EDITION issue 19
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