September 2019

COMING TO AMERICA

ニューヨークの華麗なる亡命者たち

text nick foulkes

ジャクリーン・ケネディとジーン・ケネディ・スミス(コロニー・ミュージック・センターの外で、1968年)。

「彼女自身が語っていたように、戻ってきたことを世間に知らせるには、ここで写真を撮られるのが、一番手っ取り早かったのです」

 戦火が広がると、ヨーロッパでビジネスを展開していた創業者一族も、身の安全を求めてニューヨークの摩天楼に押し寄せた。例えば、ヴァン クリーフ&アーペルを創業したアーペル家(ユダヤ系)はパリからニューヨークに逃れ、五番街に支店を開いた。当初は亡命中の事業として始めたのかもしれないが、これが結果的に大成功し、一流ジュエラーとして揺るぎない地位を確立した。

オナシスがやってきた! 大ぶりのサングラスをかけたギリシャのビジネスマンが、エル・モロッコの常連となり、週末にはロングアイランド沖のスピードボート上に姿を見せるようになった。その男、アリストテレス・オナシスは、斬新なビジネスセンスを持つ起業家で、常にチャンスを追い求め、型破りな方法で瞬く間に富を増やしていった。

 ギリシャがナチスに占領されると、同国の海運王たちはニューヨークに拠点を移した。リバノス一家はセントラルパークのプラザホテル、スタブロス・ニアルコスはセントレジス、オナシスはリッツタワーに移り住んだ。

 戦争が終わると、ギリシャ人たちにとって、船舶を購入する絶好のチャンスとなった。余った軍用船が退役したからだ。オナシスの有名なヨット、クリスティーナ・O号も、カナダ海軍のフリゲート艦を二束三文で買い取ったものである。

 大戦が終わり、アメリカの造船所が仕事に困るようになると、オナシスは1948年までにこうした造船所に5隻のタンカーを発注したが「自らの懐は痛まなかった」という。建造前のタンカーで原油を輸送する契約を交わし、その契約を担保に建造費を調達したからだ。

 ニューヨークは海運王が血脈を広げるにも最高の場所だった。ギリシャ海運業界のドン、リバノスには、ユージニアとティナという娘があり、新進気鋭のオナシスとニアルコスはこの2人に求婚した。

 ティナ・リバノスがオナシスに見初められたのは、1943年4月、彼女がわずか14歳のときだった。落馬してケガをしたので、松葉杖をついてプラザホテルのロビーを歩いていたティナに、オナシスが一目惚れしたのだ。2人は1945年には恋人同士になっていた。ティナは後年、「ロングアイランド湾に浮かぶクルーザーの上で、オナシスに誘惑された」と語っている。

妻のシャーリーン・スタフォード・ライツマンと踊るギギ・カッシーニ(プラザホテルのブルボンボールにて、1961年)。

THE RAKE JAPAN EDITION issue 19
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