COMING TO AMERICA

ニューヨークの華麗なる亡命者たち

September 2019

text nick foulkes

ジャクリーン・ケネディと踊るオレグ・カッシーニ(ベルモントボールにて、1954年)。

 リバノスが気にかけていたのは、娘とオナシスの年齢差ではなく、姉ではなく妹が求婚されている点だった。当時は姉が妹より先に結婚するというしきたりがあり、リバノスは伝統を重んじる男だったからだ。だが結局、ティナとオナシスは1946年12月28日に結婚。その1年後には、ニアルコスとユージニアが結婚した。

 こうして、ニアルコスはオナシスの後を追いかけるというパターンが確立され、これが30年以上にわたって続いた。かつては友人、そして今や義兄弟となったふたりの、壮大なライバル関係だ。

アーティストとシェフの街 文化面にも影響は及び、戦時下のニューヨークではアートシーンが新たな局面を迎えた。フランスが降伏すると、マックス・エルンストはニューヨークに亡命し、美術収集家でパトロネスでもあったペギー・グッゲンハイムと結婚して、芸術家のコミュニティを形成した。このコミュニティは、20世紀初頭のモンマルトルのように勢いがあった。

 1920年代には、集団虐殺や政変を逃れ、芸術家たちがニューヨークに殺到した。そこからアメリカ初の芸術運動“抽象表現主義”が生まれた。マルセイユ経由で亡命してきたマルク・シャガールや、1940年にニューヨークへ辿り着いたピエト・モンドリアンらもやって来た。

 サルバドール・ダリは、1940年8月にパリを脱出して大西洋を渡った。ダリはアメリカの大衆文化に大きな影響を与えた。研究者のジュリア・パインによると、

「ドレスのデザインからジュエリー、ファッション誌のレイアウト、店のウインドウ・ディスプレイまで、あらゆるビジュアルに、ダリのシュールレアリスムが浸透している」という。

 戦時下のニューヨークでブームになったのは、ヨーロッパの最先端アートだけではない。1941年、アンリ・スーレは東55番街に、レストラン“ル・パヴィリオン”を開店。完璧主義者だったスーレはこの店を見事に仕切り、“どこまでもパリ風”のムースやトリュフソースで、たちまち人気を博した。店内は、髪をぴったりなでつけたスーレの独壇場だった。出版業界の大物、ジョン・フェアチャイルドはこう語っている。

「アンリ・スーレが認めた人物は、私も認める。ムッシュ・スーレは自分の店に並みの男は入れないからね」

トルーマン・カポーティ主催の“ブラック&ホワイト ボール”でユニコーンのマスクを着けたインテリアデザイナーのビリー・ボールドウィン。

THE RAKE JAPAN EDITION issue 19
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