COMING TO AMERICA

ニューヨークの華麗なる亡命者たち

September 2019

text nick foulkes

エル・モロッコのバイオリニストに目を見張るサルバドール・ダリ(1961年)。

未来からやってきた街 ふたつの世界大戦の間にはジャスエイジ、禁酒法時代、ウォール街の大暴落、そして世界恐慌があった。その一方で、ランドマークとなるふたつのタワー(クライスラー・ビルとエンパイア・ステート・ビル)が出現していた。

 ニューヨークはまさに未来そのもので、訪れる者を驚かせた。射撃やスキーの名手で、国王を名付け親に持ち、5カ国語を操る男、プリンス・アルフォンソ・フォン・ホーエンローエでさえ例外ではなく、殺伐とした戦時下のヨーロッパと、対照的な街の様子に圧倒されたという。

「何でも揃う店がひしめく五番街を歩くのは、天国に行くようなものだった」と彼から聞いたことがある。

 19世紀~20世紀初頭には、ヨーロッパの農民が窮乏生活や虐殺から逃れ、より良い暮らしを求めて渡ってきたが、今度は旧世界で彼らの領主であった支配階級がやってきた。貧しい人々が3等客室に乗り込んで大西洋を渡ってくる一方で、もっと華やかな亡命者たちがいたのである。

 若きアルフォンソ・フォン・ホーエンローエは、20歳そこそこでありながら、ビスポークスーツのポケットに入れた1万ドルを、ニューヨークの2大ナイトクラブ、“ストーク・クラブ”と“エル・モロッコ”でばらまいた。

 酒密売人あがりのシャーマン・ビリングスリーがオーナーを務めたストークのロゴは、シルクハットをかぶったコウノトリ(ストーク)。クラブにはルーズベルト家やケネディ家の面々からブロードウェイのスター、デビュタントまで、富や権力、美貌に恵まれた人々が集まった。

 一方、かつてジョン・ペローナの名でもぐり酒場を経営していた人物がオーナーのエル・モロッコは、52丁目にあり、一般大衆にも知られていた。特徴的な白と青のゼブラプリントをあしらったバンケットを背景に、社交界の有名人たちが写真に撮られていたからだ。

「女優のディートリヒはヨーロッパから帰ってくると必ず立ち寄ってくれました」と語るのは、エル・モロッコのマネージャーだったジェローム・ザーブ。

プリンス・アルフォンソ・フォン・ホーエンローエ=ランゲンブルクと妻のイーラ・フォン・フュルシュテンベルク(ニューヨークにて、1955年)。

THE RAKE JAPAN EDITION issue 19
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