WHAT SLIM SAW
写真家 スリム・アーロンズが見たもの
January 2022
マルセイユの売春宿を解放したことや、恋に落ちた美しい看護師と同じ名前をジープに付けたこと……。楽しかったことだけでない。強制収容所の中を見たときの恐怖や、モンテ・カッシーノの戦いのように、前線に行くには、誰もが物資を運ばなければならなかったという話もあった。
「有刺鉄線を持たされて、丘を登っていったんだ。恐怖のあまり、パンツにクソを漏らしてしまったよ。心底怖かったが、それ以来、誰も、何も私を脅かすことはできなくなった」
彼はパープル・ハート勲章を授与されたが、第二次世界大戦が彼を戦争ジャンキーにしたわけではない。「人間の苦しみや絶望はもうたくさんだと思った」と彼は言った。「朝鮮戦争の取材を依頼されたとき、私が上陸したいのは、穏やかな太陽の下で日焼けしている美しい女性がいるビーチだけだと気がついたんだ。ビーチは散歩したり、横になったりするためのもので、侵略するためのものではない」。
バックステージのコーラス・ガールたち。ラ・スカーラにて。
以降、彼が興味を持ったのは平和な撮影だけだった。帰国後はフリーランスとして、当時急成長していたカラー雑誌でニューヨークやハリウッドの社交界を取材するようになった。デビュタントの舞踏会、ダンスクラス、ヴァンダービルト家、アスター家、ロックフェラー家といった題材だ。
西海岸では、黄金時代のハリウッドを撮影していた。ハンフリー・ボガート、ローレン・バコール、ピンクのベッドでピンクのプードルを飼っている20代のジョーン・コリンズ、雪崩のようなファンレターの中のマリリン・モンロー、そしてハワード・ホークスとヒューズなどなど。
1957年には、クラーク・ゲーブル、ヴァン・ヘフリン、ゲイリー・クーパー、ジェームズ・スチュワートがホワイトタイで大晦日を祝っている様子を撮影した“キングス・オブ・ハリウッド”という、この時代を象徴する写真を残している。
パスタを食べるルイ・アームストロング。
アーロンズは被写体と交流しながら、背が高くハンサムな風貌とチャーミングな人柄で、セレブたちを魅了していった。彼は実際にハリウッドのスクリーンテストを受けたこともあり、ヒッチコックは『裏窓』(1954年)のセットをウエストサイドの彼のアパートをモデルに作ったという。
実は科学的だった撮影方法 彼の活躍は世界的なものだった。「Life」誌がローマ支局を開設した、まさに“ドルチェ・ヴィータ”の時代に、彼はローマで仕事をしていた。
私が会ったとき、彼は1950年代にローマで作ったブリオーニのディナージャケットをまだ着ることができた。数百リラあれば、女の子の部屋を花でいっぱいにすることができた時代のヴェネト通りでの生活を懐かしんでいた。