June 2022

THE PRESIDENT THAT NEVER WAS

悲劇のJFKジュニア

text stuart husband

1963年8月、マサチューセッツ州のハイアニス・ポートの別荘でバケーション中のケネディ一家。奥にいるのがこの3カ月後に暗殺されるジョン・F・ケネディ大統領。

 若きJFKジュニアは、生まれ持った活力に溢れていた。シークレットサービスは、やんちゃな彼を「Lark(ヒバリ)」というコードネームで呼んだ。しかし彼の母ジャクリーンは、息子が早熟だったとも述べている。「彼は時々、私を守ろうとしているように見えることがあります」。

 1968年に、JFKの実弟ロバート・ケネディが暗殺されると、一家の身の安全の問題は深刻になった。そこでジャクリーンは、ギリシャの海運王アリストテレス・オナシスと結婚するという結論を出した。その結果、JFKジュニアはニューヨークの私立学校で生活しながら、夏はモンテカルロやパリ、アテネ、そしてオナシスがギリシャに所有したスコルピオス島で過ごすようになった。

 当時、ジャクリーンは息子のジョンが平凡な生活を送れるようにと苦心していた。「自由がなければ、彼は無気力な人間になってしまう」とボディーガードに伝えていたほどで、彼が13歳の時にセントラルパークで強盗被害に遭ったときでさえも、いい経験だと考えていた。大人になってからも、彼はあえて地下鉄に乗ったり、セントラルパークの芝生でフリスビーをして遊んだりした。トーク番組で本人がこう語ったこともある。「びっくりするくらい普通の生活を送っているよ」。

 この「普通の」という言葉から、それが「絶えず付きまとう、とてつもない期待というプレッシャーの中で許されたもの」であることを読み取ってほしい。自分の一挙手一投足が世の注目を集めていることを、ジョンは知っていたのだ。

 やがて彼は、役者の道にも足を踏み入れたりしつつ、1983年にブラウン大学を卒業した。彼は祖母がよく言っていた言葉を心に留めていた。それはルカの福音書第12章48節から取った言葉だ。「多く与えられた者は多く求められる」。彼は恵まれない子どもたちに英語を教え、南アフリカのアパルトヘイト体制に対する反対運動を行い、1986年にマンハッタンにあるニューヨーク大学ロースクールに入学した後は、重罪を犯してブルックリン家庭裁判所に告訴された未成年者の弁護を行い、ホームレスや障がいのある人々の活動に参加した。

隠し撮りされた、セントラルパークでフットボールを楽しむ姿。

THE RAKE JAPAN EDITION issue 44
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