Wednesday, August 5th, 2020

THE LOVELIEST JOKE

ボンドのモデルとなった英国俳優

text stuart husband

 ニーヴンは子供時代、学校を転々とした。セント・ジェームズ地区の中心部で小さな屋根裏部屋をあてがわれた彼は、14歳のときに童貞を喪失。相手はコークストリートに部屋を持つ娼婦だった(彼女は相手をする前にポルノ雑誌を用意してくれたという)。ニーヴンは最終的にサンドハースト王立陸軍士官学校に進み、卒業後、3年にわたりハイランド軽歩兵師団に入隊。ほとんどをマルタで過ごした。その後中尉まで昇進したものの、ポロの腕を磨く以外にすることはあまりなかったため、この頃に大きな気晴らしを見つけた。芝居に情熱を持つようになったこと、そして女性との時間を楽しむようになったことだ。「私の心はすべての部屋が予約済みのホテルのようだった」。だが、軍に対する彼の欲求不満が来訪中の少将を侮辱するという形で噴出した結果、彼は1932年に職を辞することになった。軍法会議に付されるよりも退職を選んだのである。

俳優デビューと派手な遊び“Dashing(颯爽とした)”という言葉はニーヴンのためにつくられたのかもしれない。彼はまるで生まれたときからディナージャケットを着ていたかのようなルックスだった。たとえその場にいる大方の人に気に入られても、自分に魅力を感じない人がひとりでもいれば迷わずその人の元へ向かい、全員の心を摑もうとするような人間だった。そんな彼が除隊後に進んだ道は、人脈を生かしてニューヨークへ渡り、酒類の卸売業者のセールスやロデオショーの興行主に挑戦することだった。しかしいずれも地元のマフィアに邪魔されて終わってしまう。そこでエルザ・マックスウェルの助言に従い、カリフォルニアに移って女優ロレッタ・ヤングの母親の家に下宿した。ヤングは彼をフォックス社のスタジオへこっそり連れて行った。そこで彼は雷に打たれたように心を奪われた。「夢のような世界だった。ただただ見とれ、自分もこの世界の一員になれるだろうかと考えた」。

 だがそれには時間がかかり、オーディションに幾度となく臨むも不合格に終わった。それでもニーヴンは、「ただ自分らしくあれ」というエドマンド・グールディング監督の助言に従った結果、ついにあの伝説的な映画プロデューサーのサミュエル・ゴールドウィンに目をかけられ、7年間の契約を結ぶことになる。初任給は週100ドルで、30年代半ばとしてはちょっとした額だった。

THE RAKE JAPAN EDITION issue 35
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