THE KEEPER OF GREATNESS

ベトナム最後の皇帝
バオ・ダイ

July 2021

text stuart husband

パリ留学で得た西洋趣味 バオ・ダイはその出自も疑問視されていた。父のカイディンは同性愛者または性的不能、もしくは両方だと考えられていたため、実は叔母の息子で、父親はフランス植民地法廷の高官という説もある。真偽のほどは定かではないが、バオ・ダイはまさに時代の申し子だった。彼の治世は、ベトナムが代理戦争の場となった激動の時代と一致するのだ。

 1913年にフエのフォーン川のほとりにある王宮で誕生した彼は、宗主国フランスがフランス領インドシナのナショナリズムや半植民地主義を抑え込むための“ペット”とみなされていた。形ばかりの傀儡君主の彼は、パリに送られて学問を修め、そこでテニスやサヴィル・ロウのテーラーリング、*ビスポークシューズ、それにスポーツカーなどといった、西洋の高尚な趣味を身につけた。

 30年代初頭にベトナムに戻されると、皇帝の帰国を祝うパレードが行われ、群衆は熱狂した。しかし、彼の青臭い政治理念はすぐに行き詰まり、やがてダラットにある狩猟用の別荘、「パレスIII」に引き籠もるようになる。この別荘はアール・デコ様式の見事な建築で、今では観光名所となっている。ガイドには「バオ・ダイ帝が休暇を過ごすときは王室警備隊が常駐し、高級車が列をなし、皇帝と家族のプライベートジェットが何機も停まっていた」と書かれているが、これほど貪欲なハンターにしては飾られる戦利品は意外なほど少なく、わずか3頭の虎の皮と象1頭の象牙だけだ。私腹を肥やす君主たちが好みそうなゴールドの虚飾もあまり見られない。

繰り返す放蕩生活の行末 1945年までに情勢は緊迫の度を増していた。日本軍が東南アジアを席巻したが、存在することで変わらぬ体制の象徴として人心を落ち着かせることを期待され、バオ・ダイは王座に留まることを許された。戦争末期に敗戦が色濃くなると、日本軍はクーデターを仕組み、フランスの役人を全員抑留し、バオ・ダイを見つけ出し、ベトナムの独立を宣言するよう強く求めた。そこでバオ・ダイは、チャン・チョン・キム首相にフランスの記念碑を撤去し、栄えある独立時代に備えるよう指示をした。

*ビスポークシューズ=バオ・ダイのお気に入りは、狩猟用のコンビシューズだったという。

THE RAKE JAPAN EDITION issue 24
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