May 2017

THE DUKE OF BEVERLY HILLS

ビバリーヒルズの公爵

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キャスリン・カーヴァーとともに(1928年)

 マンジューの自伝の序文で、友人のクラーク・ゲーブルはマンジューを褒め称え、彼を経済の天才であり、1910年代のバルカン半島の政治などの難解なテーマについて語れる知識人であり、話術の達人であると評しているが、最も肝心なのは、彼をファッション評論家としてこんな風に賛美していることだ。

 マンジューの粋な感性と批評眼は、ホテルやレストランを経営していた父親から受け継いだものだった。フランス生まれで、やはり見事な口髭をたくわえていた父親について、彼は「服については一家言ある人だった」と恐れ入った様子でつづっている。

 マンジューも接客業の道に進むことを期待されていたが、父親がクリーヴランドのレストランの最上階で始めた映画上映会に、マンジューはどうしようもないほど魅了されてしまった。そこで彼は、工学を学ぶために通っていたコーネル大学で演劇作品に出演し始めた。

 そしてトレードマークの口髭がすっかり板についた1913年には、映画『Man of the World(原題)』でサーカスの演技主任役をつかみ取り、15ドルの出演料を得た。「演じることは驚くほど簡単だった」と、快活な文体で書き残している。

「台詞は覚えなくていいし、リハーサルがあったとしても、ほんの申し訳程度だった。周囲から外国貴族風だと見なされていることに気付いた私は、実生活でもその役になり切るようになった。白いスパッツ、アスコットタイ、ステッキを買い揃え、退廃的に見えるよう努めたのだ。それが功を奏し、ああいう役をいくつも演じたおかげで、ブルックリンでの私のあだ名は“The Duke(公爵)”になった」

 第一次世界大戦中、1年間の兵役を務めたマンジューは、その後間もなくハリウッドへ向かった。1921年には『三銃士』でルイ13世に扮し、同年の『シーク』ではルドルフ・ヴァレンティノとの共演を果たした。

 マンジューの顔は、無声映画の悪役に誂え向きだったのだ。彼はよく口髭の両端を悪戯っぽく動かしながら、にやにや笑いを見せるやいなや、意地の悪い冷笑を浮かべた。そして映画の終盤には決まって葬り去られ、悪漢の血を待ち望む観客たちを満足させた。

THE RAKE JAPAN EDITION issue 16
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