Tuesday, January 24th, 2017

COUP DE GRACE
グレースという贈り物

想像しがたいことだが、モンテカルロは最初から華やかな
保養地だったわけではない。戦後、モナコ公国のイメージを変えるには
活動的な若き大公と、彼にふさわしい花嫁が必要不可欠だった。これはレーニエ大公と
グレース・ケリー、そして現代モナコの誕生にまつわるチャーミングな物語である。
text nick foulkes

予期せぬ出来事の連続

 結婚前で不安を抱えていたであろうケリー家をよそに、ある事件が起きた。オテル・ド・パリのスイートルームに宿泊していたグレースたちの招待客のジュエリーが盗まれたのだ。ニューヨーク・タイムズ紙は、そのジュエリーが「推定価値5万ドル」であると報じ、犯人を「リヴィエラの泥棒」と呼んだ。
 物語はさらに意外な展開を見せた。結婚式当日、レーニエ大公の母君が、お抱えの運転手を連れ立って式へとやってきた(そのため恋人関係にあるといわれた)。ところがこの運転手は、かの有名な宝石泥棒のルネ・ラ・カン(ステッキのルネ)と呼ばれる人物だったのだ。
 この宝石泥棒は、ついこの間まで刑務所に入っていたにもかかわらず、報道
にすぐ正体を気づかれた(彼のぴっちりした白い制服は、変装の役に立たなかったのだ)。宮殿内での撮影の許可されていなかった報道陣たちは、招待客を買収し、代わりに中の様子を撮ってもらおうとしたものの、うまくいかなかったため、この宝石泥棒を見つけて大喜びした。
 ただ、4月の婚礼の日々は天候には恵まれなかった。雨が降りしきる中、写真も撮れずじまいで、しかもずぶ濡れになって不満を募らせていた報道陣は、モンテカルロ・スポルティングクラブの入口で制止された時点で怒りを爆発させ、警察と殴り合いになった。
 さすがのジャック・ケリーも、義理の息子に同情し始めたらしく、こうした逆境を向かってくる拳になぞらえて、「大公は柔軟に切り抜けねばならないだろうね」と言ったと伝えられている。

波瀾万丈なスタートの先に

 ふたりはようやく祭壇にたどり着いた。シャンパン色のドレスをまとうグレースは華麗で、大公の颯爽とした軍服は派手やかな勲章で彩られていた。ところが、若く麗しいカップルにとって何より大切なこの瞬間さえ台なしにする出来事が起きた。大公は後にこう述懐している。
「ふたりで実際に大聖堂に並んだときに驚愕したのは、結婚式の間ずっと祭壇の前がカメラとマイクだらけだったことだよ。内輪だけの時間や厳粛さが、まるきり欠如していた。後になって、山の中にあるどこかの小さな礼拝堂で結婚すべきだったね、と頷き合ったものだ」
 グレースもこう語っていたほどである。「報道陣たちは祭壇の後ろに陣取ったり、梁にぶら下がったりしていたんですもの。まるで悪夢を見ているようでした。とにかく、なにもかもが大変でした」
 それもそのはずだ。1500人のジャーナリストと、700人の招待客だけでなく、観光客までもが大勢押し寄せていたのだ。
 新婚旅行もまた、のっけから波乱万丈だった。ふたりは当初、大公家のヨットであるデオ・ユワンテ号でマヨルカ島へ出発するつもりだったが、いざ出港すると大波による揺れがひどく、船長の助言により、ヴィルフランシュ湾に寄って天候の回復を待つ羽目になったという。
 スタートは順風満帆ではなかったかもしれないが、ふたりがついに船出して新婚旅行へ出発し、結婚生活の第一歩を踏み出したとき、モナコの近代化は始まっていたのだ。他国の女優と結婚する、という自身の決断に対して国民がどれほど不安になったかを説明した際、レーニエ大公は次のように付け加えていた。
「この地域の人々の大多数が、モナコからほとんど出ることのない人生を送ってきたことを理解しなくてはならない。70歳で亡くなるまでに、一度だけ訪れた最も遠い場所がニースだというモナコ人の話を、私は何度も聞いたことがある」
 しかし、今は違う。グレースがもたらしたハリウッドの華やかさ、いや、グレースという存在がすべてを変えてくれたのだ。この小さな都市国家に世界中から人々が集まる現在を見れば、この事実は誰の目にも明らかなことだろう。

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子供たち(カロリーヌ公女、アルベール公子、ステファニー公女)とポーズを取る大公と公妃

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子供たちとスキーをするレーニエ大公とグレース公妃(1960年)

THE RAKE JAPAN EDITION issue 13
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