Tuesday, January 24th, 2017

COUP DE GRACE
グレースという贈り物

想像しがたいことだが、モンテカルロは最初から華やかな
保養地だったわけではない。戦後、モナコ公国のイメージを変えるには
活動的な若き大公と、彼にふさわしい花嫁が必要不可欠だった。これはレーニエ大公と
グレース・ケリー、そして現代モナコの誕生にまつわるチャーミングな物語である。
text nick foulkes

It wasn’t that jack kelly was xenophobic: he did not mind foreigners,
just as long as they kept clear of his daughters.
ジャック・ケリーは外国人嫌いだったわけではない。
娘に近づきさえしなければ、外国人に眉をひそめることはなかったのだから。

ふたりを結びつけた愉快な司祭

 どうやらこの結婚を奨励したのは、レーニエ大公の司祭を務めていたタッカー神父らしい。20世紀の聖職者の中でも、彼はなかなか面白い人物だった。
 モナコに関するアン・エドワーズの歴史書『The Grimaldis of Monaco(原題)』
によると、宮殿内には、タッカー神父が若き大公に“ラスプーチンのような影響”を与えていると中傷する者もいた。しかし彼はラスプーチンというより、むしろ托鉢修道士タッカーと呼ぶほうが似つかわしかった。陽気なタッカーは、60代にしてスクーターを乗り回す司祭だった。
 教皇庁の命によりアメリカからやってきた彼は、花嫁の最終候補者リストを作成していたようだ。候補者はきわめて少なく、その中には、イギリスの華麗な若きプリンセス、マーガレット王女も含まれていた。だが賢明なタッカーは、グリマルディ家とウィンザー家の縁組みは、少々目標設定が高すぎることに気づいた。しかもウィンザー家は、そもそもカトリック教徒ではなかった。
 そんなジレンマに陥っていたところ、ある要請が宮殿に舞い込んだ。映画祭のためにカンヌに滞在しているグレース・ケリーという若いアメリカ人映画スターを、モナコ公国に招きたいというのだ。断る理由はなかった。なにせ、ハリウッドの華やかさを拝借できれば、観光客の獲得につながるかもしれないのだから。
 このときタッカーが、思いついたアイデアは、まさに革新的だった。アメリカ人である彼は、コラムニストのギギ・カッシーニがゴシップ欄で称揚するような人々が、どんどん重要視されてゆく状況を目の当たりにしていたのだ。そして、そんな新しい世界秩序において、映画スターがかなり重要な地位を占めていることに気づいていたのだった。

ついに出会うグレースと大公

  リヴィエラで『泥棒成金』の撮影に臨んだグレースは、再びこの地を訪れていた。一方、1949年に総協議会のメンバーとしてローマに呼ばれたタッカーは、その後、若き大公の専属司祭を務めるためにモナコへ派遣されたのだが、それより以前に、グレースの故郷であるフィラデルフィアで過ごしたことがあった。タッカー神父が、まだ天の配剤を信じていたとすれば、まばゆいばかりのグレース・ケリーをモナコに連れてきたのは、神の御手に他ならなかっただろう。
 神父はレーニエ大公にこう説いたらしい。「戦争中にヨーロッパの王が次々と王座を失った以上、従来より範囲を広げて花嫁探しをする必要があります。アメリカ中心の世紀の真っただ中にある今、アメリカ人女優と結婚することは大公にとって決して悪くない選択です。そしてできれば、公妃役をもっともらしく演じられる名女優がいいでしょう」と。
 ふたりの顔合わせは、十分に和やかだった。グレースと大公が文通を始めると、互いの距離はたちまち縮んだ。大公がボルティモアを訪れたのも、健康診断というのは名目だけで、実はケリー嬢を口説くためだったのだ。しかし、ふたりが打ち解けてゆく一方で、大公は乗り越えるべき文化の違いがあることを感じていた。「おそらく、こんな風に説明すべきだろうね」と、レーニエ大公は語った。
「多くのモナコ人がアメリカ人と聞いて思い浮かべるのは、キャデラックでオテル・ド・パリに乗り付けるような、少々風変わりな人種だけだった。同様に、イギリス人と聞いてイメージするのは多分、婦人のスリッパからシャンパンを飲んでいる貴族の姿だろう。こうした人たちが、普通よりも少し個性的な例外だということをなかなか理解してもらえなかった。その結果、必然的に不信感が生まれたし、公妃が映画スターであるという事実もまた、年配の国民の多くを驚かせた」

厳しすぎるグレースの父の態度

 さらに大公は、この縁組みの妥当性をグレースの父に納得してもらわねばならなかった。タッカー神父に対するジャック・ケリーの最初の反応は、表面的にはまるで芳しくなかった。ジャックはいつもの歯に衣着せぬ物言いで、「どんなところか誰も知らないような、ちっぽけな国を治める不健康なプリンスに、娘をやりたいとは思わない」と言い放ったという。
 しかし、これはレーニエ個人に向けた批判というわけではなかった。現に、オレグ・カッシーニについてのジャックの態度のほうが、はるかに失礼だった。かつてオレグがケリー家に滞在しにやってきたとき、一家の主であるジャックは彼をひたすら無視していた。ケリー家の基準からすれば、レーニエ大公はこれでも恵まれた状況にあったのだ。
 ちなみにジャックは、外国人嫌いだったわけではない。娘に近づきさえしなければ、外国人に眉をひそめることはなかった。何はともあれ、レーニエ大公はグレースの父親に注目されていたし、グレースの母親に至っては、結婚式の構想に胸を躍らせてさえいた(花嫁の自宅で行うアメリカ式ではなく、モナコで行うと聞かされるまで、ではあるが)。
 だがジャック・ケリーには、200万ドルの結婚持参金を出す気はさらさらなかった。持参金の提案に対し、ジャックは案の定カンカンになった。「私の娘は、誰と結婚しようが金を払う必要などない」といきり立った。しかし、最終的には、花嫁の父として結婚式に200万ドルを出すことに渋々同意した。

Issue13_P138_01

シングルスカル種目に出場する、グレースの父ジャック・ケリー(1920年)

Issue13_P138_03.jpg

大公夫妻の結婚式で、祭壇にて(1956年4月)

Issue13_P139_03.jpg

パリでの休日(1956年)

Issue13_P139_04.jpg

小型船が大公のヨットを囲み、搭乗している未来のグレース公妃を歓迎する(1956年)

THE RAKE JAPAN EDITION issue 13
1 2 3