May 2023

THE KING’S REACH

チャールズ皇太子の素顔(Issue07/2015年11月24日発売号掲載記事)

text hugo vickers (royal biographer)

フィジー公式訪問にて(1974年)。

カミラとの別れ 問題はそれだけではなかった。皇太子は海軍に在籍しており、1973年1月には、軍艦HMSミネルヴァで8カ月の軍務についた。彼は1972年12月にカミラと最後に会い、航海に出発した。この関係が8カ月の別離に耐えられる保証はなく、2人は別れてしまった。それ以来、皇太子はこの別離を心から後悔することになる。

 カミラは皇太子妃にふさわしいとはみなされていなかったから、自分がプリンセス・オブ・ウェールズになれるとは思ってもいなかったようだ。彼女は、チャールズ皇太子との出会い(6カ月ほど前)まで付き合っていたアンドルー・パーカー・ボウルズとよりを戻した。

 パーカー・ボウルズは王室騎兵隊(ブルーズ)のハンサムな大尉で、シャイな皇太子とは違って恋愛にも積極的だった。彼は女性にモテる社交界の人気者で、結婚前はアン王女とデートしていたこともあった。あらゆる点で内気な皇太子をしのぐ、颯爽とした求婚者だったのだ。

 4月までにカミラは彼と婚約し、皇太子はショックを受けた。皇太子は「喜びに満ち、穏やかで、互いに幸せな関係」を思い出としていたからだ。

 皇太子はぽっかり穴が開いたような空しさにさいなまれ、そこに追い打ちをかけるように辛い知らせが届いた。妹のアン王女がマーク・フィリップス少尉(不釣り合いだと皇太子が反対していた相手)と結婚することになったのだ。

 チャールズ皇太子が1976年末に英国海軍を除隊すると、結婚相手を探すべきだとマスコミが騒ぎ出し、1978年に皇太子が30歳を迎えると報道はさらに過熱した。これは彼自身が不用意にも「30歳は男性が妻を求めるのに、ぴったりの年齢だと思う」と発言したためだが、その誕生日が過ぎても花嫁は現れなかった。

 一方で、アンドルー・パーカー・ボウルズはロイヤルファミリーに近い立場にいた。彼の両親が皇太后の親しい友人だったからだ。皇太后はアンドルーの両親、デレクとデイム・アンを頻繁に招いて滞在させていたが、やがてアンドルーとカミラもスコットランド極北部にある皇太后の離宮、メイ城の訪問者リストに名を連ねるようになった。

 パーカー・ボウルズは王室騎兵隊で華々しく昇進し、チャールズ皇太子のチームでポロに興じ、1981~1983年には王室騎兵乗馬連隊の指揮官、1987~1990年にはシルバースティック(王室騎兵連隊長代理)を務めた。彼はロイヤルファミリーの親しい友人の一人であり、カミラもそこに加わっていた。

 他人の結婚生活を掘り下げるのは難しい。アンドルーがロイヤルファミリーの身内やロンドンの社交界で人気のある人物だったことは間違いないが、これが皇太子にカミラとの交友を再開させるきっかけになったのかもしれない。

 カミラは1974年にトム(チャールズ皇太子の名づけ子)、1978年にローラを出産し、二児の母親になっていた。1979年までに彼女は、皇太子に最も近い異性の友人になった。彼はディンブルビーに、カミラは自分にとって「中心的な存在」であり「大切な相談相手」だと語っている。しかし周知の通り、皇太子は王位継承者として、必ず結婚する必要があった。

THE RAKE JAPAN EDITION issue 07
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