THE KING OF BLING
派手さを極めたエジプト最後の王
August 2019
銃猟を終え、どっさり積んだ獲物の前でポーズをとるファルーク。カイロにて(1946年)。
ファルークは、27カラットのカボション・カットのエメラルドを手に入れるなど、欲しいと思ったものは何でも手に入れるのが習慣になっていた。そしてついに、他国への公式訪問中に工芸品などさまざまなものをこっそり盗むようになった。“戦利品” の中には、イラン国王の棺から持ち去った儀式用の剣や、ウィンストン・チャーチルからくすねた懐中時計もあった。おまけに、民情視察中にもスリの技を発揮し、国民にも“カイロの盗人”として知られるようになった。
凋落と終焉 ファルークは、支持率が下がるばかりの現体制へのテコ入れに奮闘した。中でも、結婚による再出発は大きな出来事だった。1948年にファリダと離婚し、3年後に中流階級の出身ゆえ“ナイルのシンデレラ”と呼ばれた17歳のナリマン・サディクと結婚した。体重130kg以上のファルークは彼女に対して、結婚式までに体重が49kg以下にしなければ舞踏会に参加するなと命じたという。このとき受け取った祝いの品々の中には、エチオピアの皇帝から贈られた宝石を鏤めた壺や、スターリンから贈られたロシアの貴石で縁取りした文具セットなどがあった。やがてサディクはファルークが切望していた跡取り息子を産んだ。だが、こうした出来事もファルークの窮地を救うことはできなかった。
さらに、第一次中東戦争で、エジプト軍はパレスチナの大部分がイスラエル国の手に渡る事態を防げず、ファルークをさらなる窮地に追い込んだ。エジプト軍が時代遅れの兵器を装備する羽目になったのは、ファルークの私利私欲が原因だという非難の声も上がった。ファルークは幼い息子に王位を譲ると、価値を理解し丁重に扱うとは思えない同軍にスーツの処理を任せ、イタリアとモナコに亡命。1953年にエジプトは共和国となった。
ファルークは、自身の危うい状況に気づいていなかったわけではない。あるとき彼はこんな軽口をたたいていた。「もうじき5人の王しかいなくなるだろう― それはイングランドの王と、ハート、ダイヤ、スペード、クラブのキングだ」。退位後の彼は、ヨーロッパのリゾートに足繁く通った。一方、エジプト政府は彼の硬貨や時計を売り払い、宝石類のコレクションを博物館で展示した。各地を渡り歩く暮らしとファルークの女遊びに疲れたサディクは、離婚してエジプトに帰った。ファルーク自身は、ローマのイル・ド・フランスというレストランへ行き、いつものようにボリューム満点の夕食で若い女性をもてなした後、この世を去った。1965年のニューヨーク・タイムズ紙の記事によると、死亡時の彼の携帯物は、サングラスと拳銃1丁、ゴールドのカフリンクスと結婚指輪、腕時計、現金155ドルだった。彼の持ち物を奪い取ろうとする人々はもういなかったかもしれない。だが権威を失ってもなお、ファルークが派手さを極めた王であり続けたことは、疑いようもなかっただろう。
左上:主にキャデラックとパッカードで構成された、ファルークの保有車両(1960年頃)。左下:ファルークが所有したポルノグラフィの数々。新生エジプト政府が没収した(1967年)。右:ファルークと家族をナポリまで送り届けたマハルーサ号(1952年)。
ファルークが15歳にして手に入れた、ヴァシュロン・コンスタンタンの懐中時計(18Kイエローゴールド製)。スプリットセコンド・クロノグラフ、ムーンフェイズ、パーペチュアルカレンダーに加え、グランソヌリ、プチソヌリ、ミニット・リピーター、アラームを備えており、20世紀に同ブランドが製作した最も複雑な懐中時計である。