August 2019

THE KING OF BLING

派手さを極めたエジプト最後の王

text stuart husband

スイスのサン・モリッツで休暇を楽しむファルーク。

 人柄についての評価は大いに割れていた。「彼の英語教官が1936年に書いたメモによると、若い頃、既に多くの噓をついていた」と、歴史学者のフィリップ・マンセルは述べている。また、優れた成績を修めていた学業よりも、遅くまで眠ったり、ロンドンへ買い物に出かけたりすることばかりに興味を持っていた。そのため、1936年にフアードが崩御し16歳で統治者となったファルークは、いきなり現実を突きつけられたようだった。

不満を買ったエジプト王 ファルークの統治は国民を称賛する熱烈なラジオ演説で始まった。「私は自己の責務のために、あらゆる犠牲を払う覚悟だ。我が高潔なる国民よ、私はあなた方と、あなた方の忠義を誇りに思う。私たちは栄え、幸福になることだろう」。ファルークはこう宣言したが、結局その言葉を実行できないまま統治期間を過ごした。彼は議会制度に干渉し、汚職事件の中心人物となり、ナイル川沿いの農場を少数の地主に買い占めさせた。さらに、装飾の多いアンピール様式の家具を欲しいだけ手に入れたため、この様式は“Louis-Farouk(ルイ・ファルーク)”と呼ばれるようになった。

 ファルークの度を越した行動は、これだけではなかった。エジプト人貴族の娘であるサフィナーズ・ズルフィカール(ファリダ)と結婚し、3人の娘をもうける一方で、国務や家庭生活を顧みず、ロールス・ロイスやベントレーで疾走したり(取り締まりの対象外であることが警察にわかるよう、ボディはいつも赤で塗装された)、高額の賭けに興じたりしていた。ファルークのいとこを父親に持つマハムード・サビトは、「彼はあらゆる大物銀行家と賭けをしていた」と語る。「自分が勝つまで、相手に勝負を続けさせた。4、5日かかることもあった。テーブルから去りたければ、彼に負けなければならなかった」。

止まらない強欲 第二次世界大戦の苦難のさなかに、ファルークが批判の的となった出来事があった。枢軸国による爆撃の防衛策としてアレクサンドリアに灯火管制が敷かれていたにもかかわらず、市内にある彼の宮殿は明かりを煌々と灯し続けていたためだ。エジプトでは、イギリスが依然として影響力を保持していたため、ファルークを含む多くのエジプト人はドイツとイタリアに好意的だった。この状況に憤慨したイギリスは、現内閣の代わりに、より従順な内閣を樹立するようファルークを説得した(ただし、エジプトは公式には第二次世界大戦の最後まで中立を維持した)。

 プライドを傷つけられたファルークは、カイロのホテルで過ごす情熱的な夜に慰めを求めていた。ギャンブル目当ての彼は、よく閉店時間に姿を現した。そして次の目的がセックスだった。美しい妻がいる男性は、彼にテーブルに誘われることを恐れ、たちどころに姿を消した。中には、彼にロールス・ロイスで砂漠のピラミッドの裏へ連れて行かれた男性もいた。

 ファルークのこうした権利意識は、イスラム法の解釈に基づいていた。自身の回顧録でも、「夫が第一夫人以外の妻を持つことを許可している。私は自分の誓いにも信仰にも背いていなかった」と述べている彼は、イタリア人オペラ歌手のイルマ・カペーチェ・ミヌートロや、小説家で社交界の花形であったバーバラ・スケルトンと恋愛関係になった。スケルトンは恰幅の良いファルークを「継ぎ目の縫製が雑な、おがくず入りの特大テディベア」と形容していた。

エジプトでサギ狩りを楽しむ様子。

THE RAKE JAPAN EDITION ISSUE 22
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