LIGHT YEARS

輝かしきナイトクラブの時代

November 2016

text james medd

1964年、ペパーミント・ラウンジでのザ・ローリング・ストーンズ。

エスカレートしたクラブの行く末 スタジオ54が衰退すると、常連はさらに過激なクラブへ移っていった。

 例えばマッドクラブには、スタジオ54と同じようなアーティストや知識人、社交界の名士たちが集ったが、ポストパンクのラテンビート、ロックンロール、アフロ・ファンクなど、ごった煮のような音楽の波に襲われることになった。結局、それに馴染んだ者はほとんどいなかった。

 それより少し遡った70年代後期のパリ3区にある古い高級浴場では、同じような事業が展開されていた。若きフィリップ・スタルクが装飾を施したナイトクラブ、レ・バン・ドゥーシュだ。

 同店には、パリの前衛的なアーティストだけでなく、プリンス、ジャン=ミシェル・バスキア、ロバート・デ・ニーロといったスターも訪れた。

 ダンスフロアのそばにはプールがあり、店の外には好景気に沸くパリの街が広がっていたが、レ・バンの最大の強みは、世界的な名声を誇るマリー=リヌという入場審査員がいることだった。

 彼女は厳しい入場制限で有名だった。それは、「金持ちでも貧乏でも、若くても年寄りでも、有名でも無名でも結構。ただし平凡な人はお断り。ほとんどの人は、その条件をクリアできないと思う」という容赦ないものだった。

 レ・バンのライバル店は、9区のル・パラスだった。ル・パラスにも、レ・バンと同じようなファッション・音楽・映画関係者が集っていた。経営者のファブリス・エメールがレ・バンに勝っていたのは、哲学者たちに支持されていた点だ。エメールの狙いはスタジオ54に対抗することだったのかもしれない。

 偉大な記号学者であるロラン・バルトによれば、エメールが生み出したのは「現代的要素がもたらす興奮、新技術による新たな視覚の探究、(中略)ひとつの完成された場所」だった。

 一見大げさな見解だが、1978年3月1日、つまり開店初日の夜にル・パラスにいた者ならば、きっと理解できるだろう。何しろ、バラの花を散らしたピンクのハーレーダビッドソンの上で、グレイス・ジョーンズが『ばら色の人生』を歌ったのだから。

 しかしこんな栄華はいつまでも続かなかった。栄華を極めたナイトクラブは衰退し、すっかり過去のものとなってしまった。80年代後期になると、ハウスミュージックの広まりとともに、ナイトクラブはダンスに主眼を置いた“クラブ”と、19世紀の紳士のクラブを基にした新種の社交場へと分裂した。

 それから数十年の間に、一流ナイトクラブの多くは何らかの形でリバイバルを果たしたが、いずれも結果は期待外れに終わる。人気店の焼き直しのようなナイトクラブも相次いで誕生したが、そこにあるのはまやかしの異国情緒、見せかけだけの威厳、薄っぺらいエリート主義の幻影に過ぎなかった。

 入場を許されたとしても、そこはナイトクラブではなく、法外な値段を提示するワインバーでしかない。ナイトクラブの黄金時代は過ぎ去り、どんなに上辺を飾っても、あの時代が戻ってくることはもうないのだ。

THE RAKE JAPAN EDITION issue 08
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