August 2023

THE GRUBBY DEMON of PUNK

パンクの悪魔、シド・ヴィシャス

彼は自由の象徴であり、ドラッグ中毒者であり、ロックンロールのインスピレーションであり、自己破壊の衝動にかられる人間そのものであった。シド・ヴィシャスは、自らの矛盾から逃れることができなかった。彼は21歳であの世へ旅立ってしまった。
text james medd

Sid Vicious / シド・ヴィシャス1957年、イングランド・タンブリッジウェルズ出身のパンクロッカー。77年からセックス・ピストルズにベーシストとして参加。シャープなルックスと過激な行動で人気を博す。バンド最終期にはヴォーカルも務めた。78年末には恋人ナンシー・スパンゲンを殺害した容疑で収監。釈放後の1979年2月2日、ドラッグの過剰摂取により21歳で死亡した。

 シド・ヴィシャスを嫌うのは簡単なことだ。鉤十字のマークのついたTシャツを着て、人々を挑発し続けたのだから。しかしマンガのようなツンツン頭とフェレットのような顔の向こう側に、もうひとりのシドがいる。もっとロマンチックで、意味深長な彼がいるのだ。

 サド侯爵やフランシス・ベーコン、クエンティン・タランティーノのように、彼は自己破壊とニヒリズムを極限まで追求し、その中に美を見いだした。

 1978年12月、死の3カ月ほど前のインタビューで、彼はこんな言葉を残している。インタビュアーが「来年は何をしたいと思いますか?」と尋ねると、シドはこう答えた。「ただ、楽しみたいね。それが俺の人生の目標だ」。

 この見事なまでのシンプルさ。結局、他に何があるだろう? 問題はシドがすでにわかっていたように、人生はそんなに単純ではないということだ。

 インタビュアーは「今、楽しいですか」と続けた。「冗談だろう?」彼は答えた。その声は苦痛に満ちていた。「全然、楽しくないよ」。

 それがシドだ。自由の象徴であり、重度のドラッグ中毒者であり、ロックンロールのレジェンドであり、自らを破壊したい衝動にかられるひとりの人間である。

 アナーキーの象徴であるシドだが、生まれたのはごく普通のイングランドの町だった。1957年、保守的なことで知られるタンブリッジウェルズで誕生し、サイモン・ジョンと名付けられた。もともと彼の姓はリッチーだったが、母アンの姓であるビヴァリーを名乗ることが多かった。

 アン・ビヴァリーはボヘミアンのライフスタイルを早くから取り入れ、自身もヘロイン中毒だった。息子の死まで彼の人生に関わり続けたが、ポジティブな存在であったことは稀である。彼女は息子が17歳の時、彼を家から追い出し、こう言った。

「出ていくのはあんたか私かどちらかよ。で、私にそのつもりはない。私は自分が大事なの。だからあんたがさっさと消えて」

 シドは学校で知り合ったジョン・ライドン(まだジョニー・ロットンではない)と一緒に、空き家を見つけて勝手に住むことにした。彼らはヴィヴィアン・ウエストウッドとマルコム・マクラーレンが経営するキングス・ロードのブティック「Sex」や、後にパンクシーンを発展させることになるクラブや集会に出入りを始めた。

 シドは世間知らずで、誰にでもなつき、どこへでもついて行った。英国のバンド、ザ・スリッツのヴィヴ・アルバータインは、彼のことを「ちょっと優しい人」だと記憶している。ライドンは大人しい彼にヴィシャスというニックネームをつけた。ヴィシャスはライドンが飼っていたハムスターの名前である。

 しかし、パンクは基本的に破壊的なものであって、シドもまたそんな要素を持っていた。ライドンがセックス・ピストルズのヴォーカル、ジョニー・ロットンとなり、パンクの象徴となったとき、シドはいつもライブにやってきており、パンク独特のダンス「ポゴ」(その場でぴょんぴょん飛び跳ねる)を考え出したといわれている。

 彼の行動はだんだん過激になっていった。あるコンサートでは、邪魔だった前にいた人の頭を自転車のチェーンで打ち据えた。打たれた人物の名前はニック・ケントといい、セックス・ピストルズのメンバーにもなりかけた元ミュージシャンで、その後ジャーナリストに転向し、パンク・ムーブメントを盛り上げていた。

左から:グレン・マトロック、ナンシー・スパンゲン、シド・ヴィシャス、ダムドのドラマーのラット・スキャビーズ。ロンドンにて(1978年)。

THE RAKE JAPAN EDITION issue 51

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