LIGHT YEARS

輝かしきナイトクラブの時代

November 2016

text james medd

1977年、スタジオ54でのスティーヴィー・ワンダー、スティーヴン・スティルス、ステファニー・ミルズ、テディ・ペンダーグラス。

ドアポリシーが生んだ特別感 一流クラブはどこも非常に厳しい、無慈悲ともいうべきドアポリシーを導入していた。名の知れた人々にとって、きちんとしたナイトクラブは貸し切り店のような安全地帯。パパラッチもいなければ、前夜の不作法を書き立てる新聞記者もおらず、自由に浮かれ騒ぐことができた。

 一方、野心ある一般人にとっては、それがたまらない魅力となった。少数の選ばれた人々と同じ空間を共有し、特別な人間になるチャンスを生み出したからだ。

 この手法をどこよりも巧みに利用したのが、3年弱と短命ではあったが、すさまじい熱気を放ったニューヨークのディスコ、スタジオ54だ。

 同店は、誕生するやいなや、創業者であるイアン・シュレーガーとスティーヴ・ルベルの強烈な野心や、広報担当者の持つ強力な人脈、客の飽くなき自己顕示欲によって空前の成功を収めた。そして、あらゆる工夫に次ぐ工夫によってニュースを賑わせ続けた。例えば、ドリー・パートンのために、干し草の束や羊を使ったテーマパーティが開かれたこともあったし、ビアンカ・ジャガーがダンスフロアで白馬に乗った夜は伝説となった。

 だが、同店が世界一人気のナイトスポットになった理由は、それだけではない。ルベルがドアの外に置かれたスツールの上に立ち、入場できる客を選ぶという独自のドアポリシーを持っていたからだ。ルベルはそれを、サラダの調理や演劇の配役になぞらえていた。

 彼が入場を拒否した人々の中には、フランク・シナトラやジョン・F・ケネディ・ジュニアも含まれていた。シックのメンバーとして、スタジオ54の定番曲を生み出していたナイル・ロジャースやバーナード・エドワーズも、やはり入場拒否の憂き目にあったという。

 首尾よく入場できた者は、シュレーガーがあらゆるクラブの“品質保証”に等しいと評したアンディ・ウォーホルや、ミハイル・バリシニコフ、ダイアナ・ロス、デボラ・ハリー、オマル・シャリーフ、トルーマン・カポーティといった人々に会う機会を得られた。

 名声の概念をこれほど非論理的に扱う仕組みは前代未聞だったが、ルベルに選ばれた者は、まさに天国のような場所へ足を踏み入れる資格を得たのである。

 しかし、やはりというべきか、水面下には肉欲や薬物の常用によって形成された裏の世界が存在していた。金銭的な腐敗もつきもので、ルベルとシュレーガーはともに脱税で投獄されることになった。

 ルベルは「自分たちより稼いでいたのはマフィアだけだ」と豪語したが、これもスタジオ54がアートプロジェクトではなく、あくまで商売であったことを物語っている。

1980年、スタジオ54でのダイアナ・ロスら。

THE RAKE JAPAN EDITION issue 08
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