LATE NIGHTS LISTENING TO THE SUN SESSIONS
悲劇に見舞われる前の天才
若きエルヴィス・プレスリー
September 2019
ラスベガスにて、切り分けたウェディングケーキを新婦のプリシラに食べさせてもらう姿(1967年)。
ジャンルをまたぐ天才 ジャンルも感性も、音もリズムも、センスも形式もバラバラなこの音楽の数々を、彼は一体どこで耳にしていたのだろうか? 今の我々に残されているのは、50年代初期にユニオンアベニューで行われた、多彩な輝きを放つ7回のレコーディングセッションにおいて、彼がこれらの素材を、完璧に自分のものとした事実である。
彼はいかにして、アメリカの音楽をこれほど幅広く網羅したのか? 彼は誰の作品を手本にし、練り直したのだろうか? 誰のどんな工夫に興味をそそられたのだろう? 彼はどんな方法で、それらを自分の総合的な美学へとまとめ上げていたのだろうか?
彼がこれらの異質なジャンルについて、何の区別も価値判断もしなかったのはなぜか?
偉大なデューク・エリントンが何年も前に述べた「音楽は音楽だ、いいか悪いかしかない」という判断だけが、彼の唯一の基準だったようにみえる。エルヴィスは、自分が触れられる文化を公平に受け入れる人物だった。いかにもアメリカ的な才能である。
考えてみると、これは驚異的なことだ。彼はどこで耳にしたものであっても、気に入ればすんなり取り入れた。偏見も先入観も持たず、心を喜ばせるサウンドを聴き分ける、優れた耳を持っていた。そんな彼が、若者を心底ゾクゾクさせ、体制に従う人々をおびやかし、先頭を切って変革をもたらす未来志向の存在だったのは当然である。
彼はきっと、当時のストリート、レコード、ラジオから聞こえてくるすべての音楽に心を開いて耳を傾けたのだ。そして、素晴らしいサウンドを直感的に聴き分ける耳と、豊かな感受性を持ち、優れた歌を自分のものにする方法を心得ていたに違いない。
彼は、アイゼンハワーが率いる1950年代において、集団的な体制順応主義をかき乱し、揺るがすために登場した、新時代の新人類だった。大人たちはそれをどう理解すべきかよくわからず、気をもんだ。言うまでもなく、ジャズもまったく同じように発展した。創造性を母体とし、ストリート、ジュークボックスを置いた店、ナイトクラブ、売春宿から生まれ、どこからでも着想を得たのだ。