Wednesday, September 25th, 2019

LATE NIGHTS LISTENING TO THE SUN SESSIONS

悲劇に見舞われる前の天才
若きエルヴィス・プレスリー

1954年、無垢な才能と音楽精神にあふれた自信たっぷりの19歳が、サン・レコードのスタジオに足を踏み入れた。
彼が戦後社会の人々に、ゾクゾクする未来を夢見させたあの時代は、記憶にとどめておく価値がある……。
text g.bruce boyer

Elvis Presley / エルヴィス・プレスリー1935年、アメリカ・ミシシッピ州生まれ。史上最も成功したソロ・アーティストといわれる。1954 年にサン・レコードにおいて伝説的なレコーディングを行い、後世に残る名曲の数々をリリース。55年にはRCAへ移籍。その後は映画、ステージを中心に活躍する。58年より2年間徴兵され、西ドイツのアメリカ軍基地にて勤務した。77年メンフィスの自宅にて死亡、死因は処方薬の誤飲用とされる。享年42歳。

自邸グレースランドの敷地を散歩するエルヴィス・プレスリー(1957年頃)。

 エルヴィス・プレスリーは、その青年期にこそ輝いていた。晩年のエルヴィスが肥満し、薬漬けになり、銃を持ち歩き、滑稽な衣装をまとってラスベガスのステージに出演しては中年女性に向かって歌い、汗まみれの安いスカーフを配る姿はぞっとする有り様だったが、それは本題ではない。私が話しているのは、青年期の希望と戸惑いを胸いっぱいに抱え、カリスマ性と才能をほとばしらせながらサン・レコードのスタジオに足を踏み入れた、輝かしい若者のことだ。

 エルヴィスが成人を迎えたのは、20世紀のちょうど半ば頃。2度の世界大戦と悲惨な経済不況の後にやってきた1950年代だった。50年代のアメリカは、かつてない繁栄の日々を過ごしつつも、人種差別、労働者階級の不安、大衆文化、企業中心の消費文明、性の解放といった問題を抱えていた。

 若者のニュー・ミュージックであるロックンロールに関しては、当初から誰の目にも明らかなことがあった。ファンも中傷者も一様に認識していたのは、プレスリーこそが変化を促進し、黒人と白人の双方のエンターテインメントに通じ、「貧しい南部の少年が20世紀の文化の象徴になる」人物であるということだ。のちにボブ・ディランが述べたように、「彼の歌を初めて耳にしたときは、牢獄から飛び出すような心地だった」のである。

 メンフィスのユニオンアベニューにあるサン・スタジオでレコーディングした最初の数曲は、新たな夜明けを期待させ、喜びと希望を宿す、力強い新世界を思わせた。だが今日、エルヴィス・プレスリーの歴史的なサン・セッションズ(サン・スタジオで録音した楽曲)を聴くと、何にも増して感じるのは深い悲しみだ。それは、空費、不節制、搾取がもたらす悲しみであり、ああはならなくてもよかったのではないか、という陰鬱な思いだ。実際の彼はふらふらと負のスパイラルに陥り、薬を常用するようになり、42歳のときにバスルームの床の上で死亡した。成功とは裏腹に、その体は破滅を迎えていたのだ。

奇跡の19曲 1954年7月5日から1955年7月11日の間にレコーディングされた最初期の歌は、わずか19曲であったが、大きな将来性を感じさせた。この時期には実際のレコーディング日が不明な歌もあるため、評論家の間では今も議論がなされているが、現存する最初のレコーディング曲が『ハーバー・ライト』で、『トライング・トゥ・ゲット・トゥ・ユー』と『ミステリー・トレイン』が最後だという点については、皆の意見が一致しているようだ。

 エルヴィスの名声の軌跡を振り返ると、この後の展開はほぼ不可避だったのではないかと思えてくる。新進のタレントは、成功によって蝕まれ、ついには破滅した。しかし時代と状況が違っていれば、彼は偉大なるアーティストになっていたかもしれない。

THE RAKE JAPAN EDITION issue 30
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