Wednesday, September 25th, 2019

LATE NIGHTS LISTENING TO THE SUN SESSIONS
悲劇に見舞われる前の天才
若きエルヴィス・プレスリー

1954年、無垢な才能と音楽精神にあふれた自信たっぷりの19歳が、サン・レコードのスタジオに足を踏み入れた。
彼が戦後社会の人々に、ゾクゾクする未来を夢見させたあの時代は、記憶にとどめておく価値がある……。
text g.bruce boyer

 エルヴィス・プレスリーは、その青年期にこそ輝いていた。晩年のエルヴィスが肥満し、薬漬けになり、銃を持ち歩き、滑稽な衣装をまとってラスベガスのステージに出演しては中年女性に向かって歌い、汗まみれの安いスカーフを配る姿はぞっとする有り様だったが、それは本題ではない。私が話しているのは、青年期の希望と戸惑いを胸いっぱいに抱え、カリスマ性と才能をほとばしらせながらサン・レコードのスタジオに足を踏み入れた、輝かしい若者のことだ。
 エルヴィスが成人を迎えたのは、20世紀のちょうど半ば頃。2度の世界大戦と悲惨な経済不況の後にやってきた1950年代だった。50年代のアメリカは、かつてない繁栄の日々を過ごしつつも、人種差別、労働者階級の不安、大衆文化、企業中心の消費文明、性の解放といった問題を抱えていた。
 若者のニュー・ミュージックであるロックンロールに関しては、当初から誰の目にも明らかなことがあった。ファンも中傷者も一様に認識していたのは、プレスリーこそが変化を促進し、黒人と白人の双方のエンターテインメントに通じ、「貧しい南部の少年が20世紀の文化の象徴になる」人物であるということだ。のちにボブ・ディランが述べたように、「彼の歌を初めて耳にしたときは、牢獄から飛び出すような心地だった」のである。
 メンフィスのユニオンアベニューにあるサン・スタジオでレコーディングした最初の数曲は、新たな夜明けを期待させ、喜びと希望を宿す、力強い新世界を思わせた。だが今日、エルヴィス・プレスリーの歴史的なサン・セッションズ(サン・スタジオで録音した楽曲)を聴くと、何にも増して感じるのは深い悲しみだ。それは、空費、不節制、搾取がもたらす悲しみであり、ああはならなくてもよかったのではないか、という陰鬱な思いだ。実際の彼はふらふらと負のスパイラルに陥り、薬を常用するようになり、42歳のときにバスルームの床の上で死亡した。成功とは裏腹に、その体は破滅を迎えていたのだ。

奇跡の19曲

 1954年7月5日から1955年7月11日の間にレコーディングされた最初期の歌は、わずか19曲であったが、大きな将来性を感じさせた。この時期には実際のレコーディング日が不明な歌もあるため、評論家の間では今も議論がなされているが、現存する最初のレコーディング曲が『ハーバー・ライト』で、『トライング・トゥ・ゲット・トゥ・ユー』と『ミステリー・トレイン』が最後だという点については、皆の意見が一致しているようだ。
 エルヴィスの名声の軌跡を振り返ると、この後の展開はほぼ不可避だったのではないかと思えてくる。新進のタレントは、成功によって蝕まれ、ついには破滅した。しかし時代と状況が違っていれば、彼は偉大なるアーティストになっていたかもしれない。
 起業家であり、サン・レコードのオーナーであったサム・フィリップスは、1955年11月にプレスリーの契約をRCAビクターに正式に売却した。そこから先はほぼ下り坂だった。その短い生涯の後半に、彼は空前の知名度と富、見境のない称賛を得たが、興味深い新曲は数えるほどだった。また、13年間の映画俳優人生で30作品に出演し、俳優としての可能性の片鱗を示したものの、傑作には恵まれなかった。
 プレスリーは米国外でコンサートのステージに立つことさえなかった。当時は知られていなかったが、1958年にアメリカ陸軍に徴兵された頃には、彼の美貌と創造性はほぼなくなっていたというのが悲しい真実だ。かつての栄華の残光が思いがけない瞬間にちらりと現れることはあっても、太陽は沈み切っていた。
 この事実について、多くの音楽愛好家や評論家が私と同様に感じているのは、プレスリーの才能が破廉恥かつ残酷な形で搾取されたということだ。そして彼は、成功の重圧や、自分を食い物にしようとする力(彼は自分を導く力と勘違いしていたようだが)に耐えかねたということだ。誰が耐えられたというのだろう? あの年齢では、ほぼ全員が同じように無防備な状態であるはずだ。
 サン・スタジオに足を踏み入れたときの彼は、自然体の自信あふれる19歳で、未知の偉大な才能、新しいビジョン、すさまじいカリスマ性を持っていた。だからこそ、悲劇はより悲劇的に映る。当時の彼は音楽に関する好奇心や知識を山ほど蓄えていた。
 サン・セッションズの曲をじっくり聴いてみると、初期のボーカル曲が持つありのままの美しさと独自のスタイルに加えて、実に興味深い点に気づく。プレスリーは驚くほど多彩な音楽のジャンルを熟知していたのだ。そして、ロック評論家であるニック・トーシュの素晴らしい言い回しを借りれば、彼はまだ「制約を生む営利主義という概念」とは無縁だった。エルヴィスには使いづらい言葉ではあるが、彼は純粋だったのだ。
 どうやら彼は、シカゴや南部のブルース、20世紀初期のアメリカの代表的な流行歌やジャズの定番、民謡、ブルーグラス、カントリー・アンド・ウェスタン、ブギウギなど、あらゆる種類のポピュラー音楽に精通していたようだ。この初期のレコーディングセッション(多くの音楽史家は計7回行われたと考えている)において、彼はアーサー“ビッグ・ボーイ”クルーダップ、ビル・モンロー、ジュニア・パーカー、エディ・アーノルド、ロイ・ブラウン、ジミー・ウェイクリー、ココモ・アーノルド、チャーリー・フェザーズが過去に歌った曲をレコーディングした。
 最初の歌は、多くの歌手に歌われてきた感傷的な定番、『ハーバー・ライト』だ。1937年にこの曲をビッグバンド・バラードとして初めて録音したのは、フランセス・ラングフォードだった。最後にレコーディングした『ミステリー・トレイン』は、ジュニア・パーカーのアップテンポな名曲だった。プレスリーに影響を与えた存在は枚挙にいとまがない。

Elvis Presleyエルヴィス・プレスリー
1935年、アメリカ・ミシシッピ州生まれ。史上最も成功したソロ・アーティストといわれる。1954 年にサン・レコードにおいて伝説的なレコーディングを行い、後世に残る名曲の数々をリリース。55年にはRCAへ移籍。その後は映画、ステージを中心に活躍する。58年より2年間徴兵され、西ドイツのアメリカ軍基地にて勤務した。77年メンフィスの自宅にて死亡、死因は処方薬の誤飲用とされる。享年42歳。

自邸グレースランドの敷地を散歩するエルヴィス・プレスリー(1957年頃)。

『ブルー・ハワイ』でのチャド・ゲイツ役(1961年)。

THE RAKE JAPAN EDITION issue 30
1 2

Contents