Friday, December 22nd, 2017

BRIGHT LIGHTS, B.I.G. CITY

24歳で散った“ビギー”

ノトーリアス・B.I.G.の名で知られるラッパー、クリストファー・ウォレスが射殺されてから20年。
彼の作品は批評家たちに絶賛されたが、本人は高尚な芸術的野心など抱いてはなく、
商業的、物質的な成功がすべてだった。
text by christian barker

 1969年に誕生したクージー(Coogi)ブランドは、サイケデリック感漂う、先住民文化の影響を受けたニットウェアが特徴だった。当時のクージーのニットウェアは、裕福なアメリカ人観光客向けにデザインされた、はなはだキッチュな土産物だった。メルボルンの高級住宅地トゥーラックでクージーを創業した人々は、夢にも思わなかっただろう―自分たちの生み出した500ドルの服が、上昇志向の象徴として米国の都市社会で受け入れられることになろうとは。クージーのニットウェアをプレイボーイ御用達のウェアとして定着させるうえで大きな役割を果たしたのが、ノトーリアス・B.I.G.ことクリストファー・ウォレスだった。

 B.I.G.は史上最高でこそなかったが、最高峰のひとりだった。彼には独自のスタイルがあった。例えば代表曲『ビッグ・ポッパ』には、まるでクージーを売り込むような流れが組み込まれているが、ビギーは高級ニットウェアを手にしていることを、自身の出世の象徴として描いている。

「金、女、服 俺たちが知るすべて/馬鹿げた快楽だって? 知ったこっちゃない埋蔵されたお宝を見つけるために 俺はグラムを量らなきゃならなかった/だが今はいい暮らしさ クージーのセーターを着るようなね」

 ビギーが最初に売ったのは、CDではなくG(麻薬)だった。1972年、ブルックリンでジャマイカ系の両親のもとに生まれたウォレスは、ベッドフォード・スタイベサント地区の貧しいエリア、クリントンヒルで育った。彼は賢い子供で、とりわけ英語の授業が得意だった。後にジャーナリストのチェオ・ホダリ・コーカーは、自著にこう記している。

「彼は歌詞を書き留めたノートをスタジオに持ち込まなかった。その驚異的な頭脳の中で、複雑に韻を踏んだストーリーを組み立てると、マイクの前へ行き、即興でレコーディングしたのだ」

THE RAKE JAPAN EDITION issue 19
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