Wednesday, September 25th, 2019

LATE NIGHTS LISTENING TO THE SUN SESSIONS
悲劇に見舞われる前の天才
若きエルヴィス・プレスリー

ジャンルをまたぐ天才

 ジャンルも感性も、音もリズムも、センスも形式もバラバラなこの音楽の数々を、彼は一体どこで耳にしていたのだろうか? 今の我々に残されているのは、50年代初期にユニオンアベニューで行われた、多彩な輝きを放つ7回のレコーディングセッションにおいて、彼がこれらの素材を、完璧に自分のものとした事実である。
 彼はいかにして、アメリカの音楽をこれほど幅広く網羅したのか? 彼は誰の作品を手本にし、練り直したのだろうか? 誰のどんな工夫に興味をそそられたのだろう? 彼はどんな方法で、それらを自分の総合的な美学へとまとめ上げていたのだろうか? 彼がこれらの異質なジャンルについて、何の区別も価値判断もしなかったのはなぜか? 
 偉大なデューク・エリントンが何年も前に述べた「音楽は音楽だ、いいか悪いかしかない」という判断だけが、彼の唯一の基準だったようにみえる。エルヴィスは、自分が触れられる文化を公平に受け入れる人物だった。いかにもアメリカ的な才能である。
 考えてみると、これは驚異的なことだ。彼はどこで耳にしたものであっても、気に入ればすんなり取り入れた。偏見も先入観も持たず、心を喜ばせるサウンドを聴き分ける、優れた耳を持っていた。そんな彼が、若者を心底ゾクゾクさせ、体制に従う人々をおびやかし、先頭を切って変革をもたらす未来志向の存在だったのは当然である。
 彼はきっと、当時のストリート、レコード、ラジオから聞こえてくるすべての音楽に心を開いて耳を傾けたのだ。そして、素晴らしいサウンドを直感的に聴き分ける耳と、豊かな感受性を持ち、優れた歌を自分のものにする方法を心得ていたに違いない。
 彼は、アイゼンハワーが率いる1950年代において、集団的な体制順応主義をかき乱し、揺るがすために登場した、新時代の新人類だった。大人たちはそれをどう理解すべきかよくわからず、気をもんだ。言うまでもなく、ジャズもまったく同じように発展した。創造性を母体とし、ストリート、ジュークボックスを置いた店、ナイトクラブ、売春宿から生まれ、どこからでも着想を得たのだ。
 プレスリーは、ミシシッピデルタを発祥地とするブルースベースの音楽が持つ伝統や、幼少期にミシシッピ州テュペロのアセンブリー・オブ・ゴッド教会で耳にし、歌ったゴスペル音楽を身につけていた。ラジオ、地域の酒場、巡業公演で披露される流行歌に溶け込んでいた。創造性に富むポピュラー音楽に関しては、これがアメリカ式だった。
 サンを去ってからのエルヴィスは、レコーディングセッションのたびにずるずると流され、自分のルーツからどんどん離れていった。彼とサム・フィリップスの関係を壊し、ハリウッドに向かわせ、ルーツから引き離した張本人は、おそらく彼のマネージャーであったトム・パーカー大佐だろう。
 彼が遺したものは、今やひどく色褪せ、安っぽいスター性にまみれ、悲しいほど不健全な道楽ばかりが目立ち、強欲に毒され、けばけばしい金儲け主義に染まっている。だが、この有害な文化的汚染から我々自身を解放する方法がある。それは、彼の歩みがどのように始まり、何を意味していたかを思い出すことだ。
 彼はやがて、痛々しいほど凡庸で情けない映画に出演し、ラスベガスのステージでラインストーンだらけのお決まりの姿を披露し、肥満、薬、超心理学、孤独、狂気の迷路に入り込んでいった。
 だが20世紀半ばに、カリスマ性と音楽精神に満ちた美しい若者が、メンフィスにある小さなインディペンデント系レコーディングスタジオに足を踏み入れ、我々が想像もできなかった輝く未来を垣間見させてくれた時代を、忘れずにいようではないか。
 夢見た若者は夢を実現できずに終わり、初期のレコーディング曲を聴いた人々が期待した未来は来なかった。だが喜びをもたらす初期の名曲の数々を聴くことは、今でも可能なのだ。

ラスベガスにて、切り分けたウェディングケーキを新婦のプリシラに食べさせてもらう姿(1967年)。

熱心なファンに囲まれるエルヴィス(1956 年)。

THE RAKE JAPAN EDITION issue 30
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