Wednesday, September 25th, 2019

LATE NIGHTS LISTENING TO THE SUN SESSIONS

悲劇に見舞われる前の天才
若きエルヴィス・プレスリー

text g.bruce boyer

『ブルー・ハワイ』でのチャド・ゲイツ役(1961年)。

 起業家であり、サン・レコードのオーナーであったサム・フィリップスは、1955年11月にプレスリーの契約をRCAビクターに正式に売却した。そこから先はほぼ下り坂だった。その短い生涯の後半に、彼は空前の知名度と富、見境のない称賛を得たが、興味深い新曲は数えるほどだった。また、13年間の映画俳優人生で30作品に出演し、俳優としての可能性の片鱗を示したものの、傑作には恵まれなかった。

 プレスリーは米国外でコンサートのステージに立つことさえなかった。当時は知られていなかったが、1958年にアメリカ陸軍に徴兵された頃には、彼の美貌と創造性はほぼなくなっていたというのが悲しい真実だ。かつての栄華の残光が思いがけない瞬間にちらりと現れることはあっても、太陽は沈み切っていた。

 この事実について、多くの音楽愛好家や評論家が私と同様に感じているのは、プレスリーの才能が破廉恥かつ残酷な形で搾取されたということだ。そして彼は、成功の重圧や、自分を食い物にしようとする力(彼は自分を導く力と勘違いしていたようだが)に耐えかねたということだ。誰が耐えられたというのだろう? あの年齢では、ほぼ全員が同じように無防備な状態であるはずだ。

 サン・スタジオに足を踏み入れたときの彼は、自然体の自信あふれる19歳で、未知の偉大な才能、新しいビジョン、すさまじいカリスマ性を持っていた。だからこそ、悲劇はより悲劇的に映る。当時の彼は音楽に関する好奇心や知識を山ほど蓄えていた。

 サン・セッションズの曲をじっくり聴いてみると、初期のボーカル曲が持つありのままの美しさと独自のスタイルに加えて、実に興味深い点に気づく。プレスリーは驚くほど多彩な音楽のジャンルを熟知していたのだ。そして、ロック評論家であるニック・トーシュの素晴らしい言い回しを借りれば、彼はまだ「制約を生む営利主義という概念」とは無縁だった。エルヴィスには使いづらい言葉ではあるが、彼は純粋だったのだ。

 どうやら彼は、シカゴや南部のブルース、20世紀初期のアメリカの代表的な流行歌やジャズの定番、民謡、ブルーグラス、カントリー・アンド・ウェスタン、ブギウギなど、あらゆる種類のポピュラー音楽に精通していたようだ。この初期のレコーディングセッション(多くの音楽史家は計7回行われたと考えている)において、彼はアーサー“ビッグ・ボーイ”クルーダップ、ビル・モンロー、ジュニア・パーカー、エディ・アーノルド、ロイ・ブラウン、ジミー・ウェイクリー、ココモ・アーノルド、チャーリー・フェザーズが過去に歌った曲をレコーディングした。

 最初の歌は、多くの歌手に歌われてきた感傷的な定番、『ハーバー・ライト』だ。1937年にこの曲をビッグバンド・バラードとして初めて録音したのは、フランセス・ラングフォードだった。最後にレコーディングした『ミステリー・トレイン』は、ジュニア・パーカーのアップテンポな名曲だった。プレスリーに影響を与えた存在は枚挙にいとまがない。

THE RAKE JAPAN EDITION issue 30
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