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競馬のための装い

September 2018

text nick foulkes

イギリスの画家、ウィリアム・フリスによる『ダービー開催日』(1856~1858 年)。

 1700年代半ばにジョッキー・クラブがパブの上に創設されたことで、ひとまず管理団体らしきものが誕生した。そしてさらに目新しい形式の競馬を求める動きにより、出走馬の数が増え、それぞれの馬の賭け金をプールして魅力的な賞金を提供するようになる。競馬は一層刺激的になっていった。

 協会式フットボールやモータースポーツが登場する前の世の中で、競馬はすぐに人々の心を掴んだ。エプソムダービー、セントレジャー、オークス、そしてもちろんロイヤル・アスコットといった大規模な競馬の開催時には、国民の興奮が最高潮に達した。ダービー観戦のためにエプソムへ向かう人の数は、25万人にのぼったという。

 19世紀になると、社会的地位の高い層においても競馬熱が高まり、大会中は国を治める仕事さえ中断された。大の競馬愛好家であるジョージ・ベンティンク卿の提言により、1847年から一定期間、ダービーが開催される週の大部分は議会の両院が休会となったのである。

ファッションを進化させた競馬 競馬は国民生活のあらゆる面に影響を及ぼした。男性の服装もそのひとつで、事務職員が粋なニューマーケットスタイルのコートを着始めたり、フロックコートの覇権が徐々に崩れたりといった変化が見られた。1936年に『When Men Wore Muffs(原題)』を著したH・P・プライスも、次のように解説している。

「フロックコートは、あらゆる目的のために広く着用されたが、“上流社会の人々”が馬に乗るとき、フロックコートのフロントの裾が邪魔となった。そのため男性たちは垂れ下がった裾を折り返し、ウエストにボタンで留めるようになった。やがて垂れ下がった裾そのものが裁ち落とされ、モーニングコートや燕尾服のエレガントなラインが生まれることとなったのだ。今も残るボタンは、実用性を重んじた先人の精神を思い起こさせる」

 ソーシャルメディア時代を生きる我々にとって、“上流社会の人々”―広大な屋敷に暮らし、ファッション、キツネ狩り、競馬に熱中した名士たち―が世間の注目の的であった時代は想像しがたい。だが、確かに彼らの服装の些細な変化は世界中で注目され、新たに生まれたスタイルや解釈はすべて彼らにちなんで名付けられていた。また当時、有閑紳士であることは、人生の究極の目標を達成したことに等しかった。重要なのは金を稼ぐことでなく、優雅に使うことだった。そして、時間つぶしと散財という点で、競馬に勝る活動はなかったのだ。

 19世紀には、「英国貴族のような装い」というのは、最高の誉め言葉になっていた。実際、服装が競馬より注目されていた時期もある。あの“ニムロド”(*1)でさえ、渋々認めている。

(*1)ニムロド = イギリスで伝説的なスポーツライター、Charles James Apperley(1777-1843)を指す。

THE RAKE JAPAN EDITION issue 24
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