Wednesday, May 24th, 2017

THE DUKE OF BEVERLY HILLS
ビバリーヒルズの公爵

ビバリーヒルズの公爵
アドルフ・マンジューは、無声映画から発声映画へうまく移行した数少ないハリウッドスターのひとりだった。
知識人であったことはもとより、彼の名を何よりも知らしめたのは、その粋な装いだった。
text stuard husband

天才で知識人のファッション評論家

 俳優が役を獲得するうえで、鍵となる要素はさまざまだ。ある者にとっては自分の声が、またある者にとってはランウェイでのウォーキングが足がかりとなる。
 無声映画が衰退期を迎えた1920年代に、優雅な足跡を残したアドルフ・マンジューにとってのそれは、ワックスで完璧に整えた口髭と、シミひとつない礼服からなる装いに他ならなかった。登場人物の状況を、まるで歌舞伎のように外見と仕草で伝えた時代に、「口髭は都会ずれした金持ちや、異国の貴族といった悪役の特徴だった」とマンジューは自伝『It Took Nine Tailors』(1948年)にて記している。ピッツバーグで生まれ、フランス人とアイルランド人の血を引く彼は、ロシアの貴族、イタリアの侯爵、人当たりはいいが評判のよろしくない恐喝犯など、あらゆる悪党を演じた。陽気で退廃的な役柄で定評を得たことを彼は心底喜んでおり、1926年の『サタンの嘆き』では魔王にすら扮した。また、繰り返し与えられる“アメリカのベストドレッサー”の称号も、諸手を挙げて歓迎していた。
 マンジューの自伝の序文で、友人のクラーク・ゲーブルはマンジューを褒め称え、彼を経済の天才であり、1910年代のバルカン半島の政治などの難解なテーマについて語れる知識人であり、話術の達人であると評しているが、最も肝心なのは、彼をファッション評論家としてこんな風に賛美していることだ。
「彼は好ましくないスタイルの人を見ると、辛辣で軽蔑的な形容詞を口にしながら、その人の服を引き裂きかねない。また、他人のズボンを批判的な目で一瞥し、まるでダブダブのオーバーオールでディナーに来たような気分にさせることもある」
 マンジューの自伝の序文で、友人のクラーク・ゲーブルはマンジューを褒め称え、彼を経済の天才であり、1910年代のバルカン半島の政治などの難解なテーマについて語れる知識人であり、話術の達人であると評しているが、最も肝心なのは、彼をファッション評論家としてこんな風に賛美していることだ。
 マンジューの粋な感性と批評眼は、ホテルやレストランを経営していた父親から受け継いだものだった。フランス生まれで、やはり見事な口髭をたくわえていた父親について、彼は「服については一家言ある人だった」と恐れ入った様子でつづっている。マンジューも接客業の道に進むことを期待されていたが、父親がクリーヴランドのレストランの最上階で始めた映画上映会に、マンジューはどうしようもないほど魅了されてしまった。そこで彼は、工学を学ぶために通っていたコーネル大学で演劇作品に出演し始めた。そしてトレードマークの口髭がすっかり板についた1913年には、映画『Man of the World(原題)』でサーカスの演技主任役をつかみ取り、15ドルの出演料を得た。「演じることは驚くほど簡単だった」と、快活な文体で書き残している。
 「台詞は覚えなくていいし、リハーサルがあったとしても、ほんの申し訳程度だった。周囲から外国貴族風だと見なされていることに気付いた私は、実生活でもその役になり切るようになった。白いスパッツ、アスコットタイ、ステッキを買い揃え、退廃的に見えるよう努めたのだ。それが功を奏し、ああいう役をいくつも演じたおかげで、ブルックリンでの私のあだ名は“The Duke(公爵)”になった」
 第一次世界大戦中、1年間の兵役を務めたマンジューは、その後間もなくハリウッドへ向かった。1921年には『三銃士』でルイ13世に扮し、同年の『シーク』ではルドルフ・ヴァレンティノとの共演を果たした。マンジューの顔は、無声映画の悪役に誂え向きだったのだ。彼はよく口髭の両端を悪戯っぽく動かしながら、にやにや笑いを見せるやいなや、意地の悪い冷笑を浮かべた。そして映画の終盤には決まって葬り去られ、悪漢の血を待ち望む観客たちを満足させた。

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Adolphe Menjou アドルフ・マンジュー
1890 年ペンシルベニア州ピッツバーグ生まれ。映画の上映会を機に俳優を志し、24 歳で演劇の世界に入る。その後『シーク』(1921 年)や『巴里の女性』(1923 年)、『モロッコ』(1930 年)まで数々の名作に出演し、50 年代まで演じ続けた。アメリカ一の洒落者であったことでも知られる。

THE RAKE JAPAN EDITION issue 16
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