November 2021

UNFORGETTABLE?

ナット・キング・コールの伝説

text james medd

ナット・キング・コール・トリオの面々。ギタリストのオスカー・ムーア(左)、ベースのジョニー・ミラー(中)、コール(右下)。

 最初は兄と一緒に6人組のバンド、エディ・コール・スイングスターズを組んでいた。その後、ふたりは旅回りの歌劇団“シャッフル・アロング”に参加し、そこで最初の妻ナディーンと出会った。ショーが終わると、彼はロサンゼルスのクラブでピアノを弾いていたが、しばらくしてシカゴに戻り、ギタリストとベーシストを加えたナット・キング・コール・トリオを結成した。

 当時の彼は、卓越したジャズ・ピアニストであった。後にその歌声で有名になると、ピアノを弾く機会は失われてしまうが、オスカー・ピーターソンやレイ・チャールズに影響を与えたことは確実で、多くの人が彼の歌手への転向を嘆くほどの偉大な存在であった。

 伝説によると、この変化は偶然に起こったもので、観客が彼に歌を求めたとき、彼はそれに挑戦し、驚くほど滑らかで温かみのある表情豊かなバリトン・ボイスを披露したのである。その夜、彼が選んだ曲『スウィート・ロレイン』は彼の最初のヒット曲となり、コンサートで時折演奏する以外は、ピアノは脇役に追いやられた。

 1940年代に入ると、彼はアメリカで最も成功した歌手となり、次々と曲を発表してフランク・シナトラをも凌駕した。愛に満ちたセンチメンタルなメロディとストリングスを多用したロマンティックなアレンジは、万人に受け入れられた。『 ネイチャー・ボーイ』や『アンフォーゲッタブル』といった将来のスタンダード曲となったヒットのほか、1950年にはネルソン・リドルがアレンジし、ビルボード・チャートのトップに5週連続でランクインした『モナリザ』を発表した。

すべてにおいてスマート コールの成功は、音楽の才能だけではなかった。笑顔の温かさや口調の上品さ、ダークスーツのセンスや無造作にまとめた髪など、彼はすべてにおいてスマートな存在だった

シカゴの野球場リグレー・フィールドにて、ジャッキー・ロビンソンに話しかけるコール。

THE RAKE JAPAN EDITION issue 41
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