The view from the mountaintop
史上最高のグループ―“ラット・パック”
June 2017
ローマでアナ・マリア・アルバゲッティとベスパに乗るマーティン(1957年)。
シナトラはさらに、自身が1953年から歌ってきたラスベガスのサンズ・ホテル・アンド・カジノで連続公演をやってはどうかと提案した。仕事が終わったらホテルで大いにどんちゃん騒ぎをしようという魂胆だった。乗り気になったメンバーたちは、こぞってサンズにやって来た。このサンズでの3週間こそ、エンターテインメント界における一時代を生み出すことになる。
彼らが行ったショーも、やはり行き当たりばったりで、サンズに掲示されている出演者リストも「ディーン・マーティン、フランク(未定)、サミー(未定)」という調子だった。出演者がひとりだけなのか、はたまた5人全員なのかは、彼らが出て来るまでわからなかった。
シナトラとマーティンは出番になると歌い、デイヴィスとローフォードは踊った。残りの時間は舞台上に設えたバーで酒を飲み、煙草をふかし、コントやモノマネに興じつつ、舞台上と舞台裏を気の向くままに行き来した。
こうした自由な雰囲気のショーは大ウケし、ラスベガス・ショーの新しいスタイルを確立した。観客は大喜びで、毎回変化するショーを見ようと繰り返しやって来た。
5人はエンターテインメント界で最もホットな存在となり、個人として手にしていた名声は、結束することで何倍にもなった。ハリウッドのテーラー、サイ・デボアが仕立てたタキシードやサッカー地のスーツをまとい、ファッション・リーダーにもなった。彼らが仲間内のトークで用いた最新のスラングはすぐに知れ渡り、男たちはそれを真似ようと必死になった。
“差別”をもショーアップした はみ出し者的なジャズのクールさと、伝統的なショービジネスを融合することによって、彼らは世代を超えた支持を得た。だがそれは、当時のアメリカの人種問題をあぶり出すことでもあった。
シナトラはイタリア系移民の息子であり、父親は読み書きもできないボクサーだった。マーティンもイタリア系移民の息子で、出生時の名はディーノ・クロチェッティ。5歳までイタリア語しか話せなかった。彼は、密造、カジノ、 製鉄所の仕事を経てショービズ界でデビューした。
ビショップの出生時の名はジョゼフ・ゴットリーブで、両親はポーランド系ユダヤ人だった。一方、デイヴィスはアフリカ系アメリカ人で、キューバ人の血も少し引いており、さらにはユダヤ教改宗者だった。
ここでは、“WASP(アングロサクソン系白人プロテスタント)”であるローフォードは少数派だった。黒人のエンターテイナーを差別する施設での公演を拒否するなど、彼らは急進的だった。また、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアやディスマスハウス(アフリカ系アメリカ人を対象とした受刑者向け社会復帰プログラム)に寄付も行った。