June 2017

The view from the mountaintop

史上最高のグループ―“ラット・パック”

text james medd

サミー・デイヴィス・ジュニア(1960 年)。

 まず仲間に加わったのは、ディーン・マーティンだった。飛び切りハンサムでカリスマ性に満ちたこの歌手は「ザ・キング・オブ・クール」という愛称で呼ばれていた。その歌声のみならず、持ち前のウィットとユーモアに富んだトークも魅力的だった。彼はコメディアンのジェリー・ルイスとコンビを組んでいたが、1956年にけんか別れしていたため、新しい仲間を見つけたいと思っていた。

 サミー・デイヴィス・ジュニアは、ダンサーをしていた1941年にシナトラと出会った。クルーナー(抑えた低い声でささやくように歌う歌手)、キャバレーのパフォーマー、ブロードウェイスターとして活動したが、ダンスや歌と同じくらいモノマネが得意だった。

 コメディアンのジョーイ・ビショップも仲間入りした。“しかめ面のコメディー王”として知られたビショップは、陽気なグループの引き締め役を担った。最後のひとりは、イギリス人俳優のピーター・ローフォードだった。ナイトの称号を持つ軍人の息子で、ジョン・F・ケネディの妹、パトリシア・ケネディと結婚するという大金星を挙げていた。

 そんな5人に負けず劣らず華やかな女性たちも、グループのもとに集った。彼女らは、アンジー・ディキンソン、シャーリー・マクレーン、ジュリエット・プラウズのような、単独でショーや映画の主役を務められるスターばかりだったが、ここでは脇役だった。ここは男子のためのクラブだったのだ。

元祖“オーシャンズ11” 世間はすぐに、この集まりをラット・パックと呼ぶようになったが、実は本人たちはその名を使わなかった。また、部外者は彼らを“一家”とも呼びならわした。「一家とかパックなんてものはないよ」とシナトラは皮肉っぽい口調で断言した。

「共通の趣味を持つ百万長者が、ちょっと楽しむために集まっているだけさ」

 アフリカ系アメリカ人であるデイヴィスの反応は、ひねりの利いたものだった。

「一家なんて呼ばれている団体に、僕も含まれるのかい?」

 1960年の初めに、ローフォードが、メンバーがラスベガスのカジノで強盗を働くという映画のアイデアを持ってきた。提案を受けたシナトラは、それが自分たちにうってつけの映画になると直感した。

 そして映画『Ocean’s Eleven(オーシャンと十一人の仲間)』が製作された。撮影は、めちゃくちゃだった。脚本は原形を失い、現場はメンバーが才能を自由に披露する場所となった。彼らはショービジネスで経験を積んできたにもかかわらず、映画人としてのプロ意識は皆無だった。5人が揃ってセットに入ったのは一度きりで、25日間の撮影中、主役のシナトラが参加したのは9日間だけだった。

THE RAKE JAPAN EDITION issue 16
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