The Rakish ART ROOM Vol.10
貴殿も世界の名画オーナーに!
パウル・クレー
October 2020
ナチス・ドイツの迫害に遭い、難病に侵されつつも、彼の創作意欲が絶えることはなかった。
『つなわたり』予期せぬ線の表情を生み出す「油彩転写」。背後の十字は、垂直と水平方向の力を強調するために描かれたと考えられる。カラーリトグラフ 和紙80部、手漉き紙220部 44×27.9cm 1923年制作 ¥6,000,000(税込価格)お問い合わせは、ザ・レイク・ジャパン info@therakejapan.com まで
光あふれる色彩のコンポジションや、児童画のように繊細で愛らしい作品が人気の高い、スイス出身の芸術家パウル・クレー。音楽家の両親のもと、ベルン郊外に生まれた彼は、10代のときから地元オーケストラで演奏するほどのヴァイオリンの名手であり、加えて文学の才能にも恵まれた早熟の天才であった。彼の作品が、常に詩情豊かで、色彩と形の美しいハーモニーを奏でているかのような印象を与えるのは、その音楽的・文学的感性によるところが大きいのだろう。
クレーが本格的に美術家への道を歩み始めるのは、1898年、18歳のとき。急進的な芸術の中心地であったドイツのミュンヘンに出て、美術家への道を模索していた彼は、1911年、アウグスト・マッケやヴァシリー・カンディンスキーらと出会い、彼らが結成していた「ブラウエ・ライター(青騎士)」の活動に参加する。眼に見える形や既存の価値観にとらわれず、精神的なものを自由な色彩とフォルムで表現することを目指した「ブラウエ・ライター」とは、後にドイツ表現主義の思想的基盤となり、さらなる解放を求めて、カンディンスキーの抽象表現を生み出した芸術グループだ。
その後、第一次世界大戦を経た1920年、クレーはドイツのヴァイマールにある造形学校バウハウスから招かれ、翌年、教授に就任する。以後約10年間、バウハウスで教鞭をとった彼は、芸術家としても、教育者としても、充実した日々を送った。
ただしこの楽園から一歩外に出れば、クレーら前衛芸術家たちを厳しい現実が待っていた。当時、台頭してきたナチス・ドイツが勢力を拡大し、バウハウスの弾圧を強めていたからだ。アーリア民族の優位性を主張し、その伝統への回帰を図る彼らにとって、クレーらバウハウスが目指した自由でユニバーサルな芸術は忌むべき存在であった。
パウル・クレー / Paul Klee (1879-1940)音楽家の両親のもと、スイス、ベルン郊外に生まれる。1898年、18歳のときに画家を志してドイツ、ミュンヘンに出て、32歳の時にマッケやカンディンスキーらと出会い芸術グループ「青騎士」で活動。41歳のときから約10年間、バウハウスの教授として教鞭をとるも、ナチス・ドイツに弾圧されてスイスに亡命。まもなくして「皮膚硬化症」という難病を患い、1940年、60歳で死去した。©Aflo
本記事は2020年9月25日発売号にて掲載されたものです。
価格等が変更になっている場合がございます。あらかじめご了承ください。
THE RAKE JAPAN EDITION issue 36