THE PRESIDENT THAT NEVER WAS

悲劇のJFKジュニア

June 2022

text stuart husband

アメリカのプリンスのような存在だったジョン(1991年)。

 ニューヨーク州の司法試験には3度目の挑戦で合格した(おかげでタブロイド紙は大喜びで「色男受験失敗」と書き立てた)。その後、ニューヨーク州検察局に入り、1993年に退職するまでに6対0というパーフェクトな有罪判決記録を打ち立てる。その間も、彼は自分が本当に関心を持っているのは法律ではないと語っていた。そして、「ただ平凡な人生を送るつもりはない」と。

 多くの人はこの言葉を、ジョンが運命に屈し、政治論争に参加していくきっかけと捉えたに違いない。彼は1988年の民主党全国大会で初めて演説を行っており、父を引き合いに出してこう言っていた。「彼は今も私たちとともにいるのだから」。このとき、2分間のスタンディングオベーションが起こった。とはいえこの時点では、彼はまだ政界入りに乗り気なようには見えなかった。

 90年代に入ると、彼はニューヨークの社交界における“若きプリンス”としてみられることを受け入れたようだった。1988年には、『ピープル』誌の「世界で最もセクシーな男」にも選ばれている。彼が街でローラーブレードを楽しむ姿もよく見られ、その姿は他の誰よりもクールだといわれたものだった。

 もちろん彼のファッションも注目された。ベレー帽、ダウンジャケット、バギーデニムパンツ、トレッキングブーツなどだ。「スーツを着ているときはスーパーマンのようでしたが、普段はどちらかというと、あえてだらしない感じでした」と語るのは、彼の長年の友人であり彼の伝記を著したスティーブン・M・ギロンだ。「ある種エリート意識の裏返しで、私たちなら立派に見せよう、よく見せようとするところですが、ジョンは自分がそうする必要がないことをわかっていたわけです」。

THE RAKE JAPAN EDITION issue 44
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