March 2017

THE PASSION OF ST.JEAN

バスキアの情熱と受難

text benedict browne
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「ニューヨーク・タイムズ・マガジン」の表紙を飾った(1985年)

薬物の過剰摂取によって亡くなった彼のロフトから、いくつかの品が回収された。
ペインティングやスケッチももちろんあったが、ジョルジオ アルマーニの服でいっぱいのクローゼットも見つかった。
スーツの一部には、固まった絵の具の薄い層が残されていたーーー。

 バスキアのセンスには、今でもファッション界とアート界に一定の崇拝者がいる。無造作で怪しげなそのスタイルには、マディソン街の高級ヨーロピアンファッションと、繁華街のリサイクルショップで見つけた安い掘り出し物が混在しており、80年代よりも今の方が“今風”に見えるような装いだ。

 バスキアが日々の装いにどれほどこだわっていたのかは定かでないが、収入が増えると、いつもアルマーニを纏うようになった。彼にとってアルマーニは強力な自己表現手段であり、それを身に着けたまま一日中絵を描き続け、夜になるとニューヨークの騒がしいクラブシーンへと姿を消した。

 バスキアは、“クールじゃない”というシンプルな理由でアメリカ式のサックスーツを避けたが、アトリエを走り回り、次々と絵を描いてゆく精力的な芸術家にとっては、イギリス式のスーツも動きづらくて実用的でなかった。そのため、彼がアルマーニを着用したのは自然な流れだった。

 しかしここで考慮すべきなのは、80年代のニューヨークが、対照的なライフスタイルを象徴する、互いに似ても似つかぬファッションのるつぼであったということだ。ウォール街のビジネスマンの能力や地位を象徴したサックスーツ、台頭するヒップホップシーンのBボーイたちが愛用したアディダスやストリートウェア、残存するパンクで好まれたスタッズやボンデージなどが溢れかえっていた。

 当時は個性を堂々と主張する時代であり、現代のようにインターネットによって情報が共有化されて、たちまちスタイルが均一化されることはなかったのだ。

THE RAKE JAPAN EDITION issue 14
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