MERCHANTS OF DOOM

英国“東インド会社”の歴史にみる教訓

March 2022

text stuart husband

 政府側は、この大盤振る舞いの対価として、イギリス東インド会社の活動を規制および抑制する権利を得た。対して会社側は、自分たちは現地における“文明化のための使節団”だと抗議した。

 だが、アメリカの植民地を失い、奴隷制度廃止運動が起こり、フランス革命が起こる中で、東インド会社式の帝国主義的な資本主義はどんどん時代遅れに映るようになった。はっきりとした陰りが見え始めたのは、クライヴの後にベンガル知事を務めたウォーレン・ヘースティングズが、1788年に略奪と汚職のかどで弾劾されたときだった。「本日、英国の下院はインドの法違反者を訴追する」。政府側の訴追者として、こう声を荒げたのは、他ならぬエドマンド・バークだった。

ネパール王国とイギリス東インド会社が戦ったグルカ戦争中に怯える象たちを描いた、スタンリー・L・ウッドによるイラストレーション。

 ヘースティングズは罪を免れたものの、自社のセポイが反旗を翻した1857年のインド大反乱は、イギリス東インド会社に致命傷を与えた。残虐行為は至るところで行われたが、イギリス東インド会社は、反逆が疑われる人々を何万人と殺害したのだ。イギリスの植民政策史上最も残酷な事件のひとつとなったこの出来事により、同社の命運は尽きた。

 1859年、インド総督のカニング卿は、同社が持つインドの領地が国有化され、イギリス政府の支配下に置かれることを正式に発表。以降はヴィクトリア女王がインドの統治者となり、イギリスのインド統治は、やや貪欲さを抑えた形の植民地支配となったのである。

今も残る“イギリス東インド会社” イギリス東インド会社のロゴをあしらった食品は、今日でも目にすることができる。2004年に、ムンバイ生まれの実業家、サンジーヴ・メータ氏が同社の権利を取得したからだ。彼は、元祖イギリス東インド会社について「おかしな形ではありますが、あの会社は世界を結びつけた、いわゆるワールドワイド・ウェブでした。当時のGoogleだったのです」と語る。

 だが、もっと似ているのは、軍事分野のアウトソーシング事業を展開し、大勢の“民間警備員”を抱えるブラックウォーター社だろう。同社の創業者であるエリック・プリンス氏も、この類似性を認めるにやぶさかでないようだ。あるインタビューで、アフガニスタン紛争を“再編成”する案について討議する際、彼はイギリス東インド会社を引き合いに出したことがある。プリンス氏の提言は、「破産法に基づく会社更生と同じように」公使を就任させ、その公使が「アメリカの存在を正当化し、あらゆる政策の責任者となる」というものだ。ちなみにプリンス氏は、公使ではなく“viceroy(総督)”という言葉を使った。富をもたらす一大帝国を築こうと、イギリス東インド会社が「無数の目と無数の耳」を配備した時代から150年以上が経った今日でも、同社の方式に基づく企業乗っ取りは、行われているのかもしれない。

1717年に制作された、フランスの寓話のエングレービング。イギリス東インド会社の設立をテーマに、商人や宣教師を中心に描いている。

THE RAKE JAPAN EDITION issue 20
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